社会の片隅から

これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。

江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題提起を

遠山日出也    
《目次》
はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが……
1 江原氏による田中氏に対する批判の要約
2 田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ
 2-1 田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服
 2-2 男性の仕事中心の生き方についても、具体的な働き方の変革を主張
 2-3 田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的
 2-4 「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か?
 2-5 田中氏が変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か?
 2-6 男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性
 2-7 田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか?」――私の場合
3 田中氏の考察の到達点を踏まえたうえでの課題の提起
 3-1 課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯
 3-2 男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識
 3-3 労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯
おわりに――女性抑圧や男性性の否定的面と社会全体の抑圧との関連への注目も必要

はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが……

江原由美子氏が、「フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか」(現代ビジネス 2019.8.24)において、田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(中経出版編集、KADOKAWA出版、2015年)を批判した。

私も、江原氏が、「男のつらさ」に寄り添うことの意義を認めつつ、フェミニズムの観点から課題を指摘している点には共感する。また、江原氏の批判は、重要なポイントにおいて当たっている部分があると思う。

しかし、私は、江原氏は、田中氏の考察の到達点を十分把握しないままに、田中氏を批判している面がかなり大きいと考える。

田中氏の到達点を踏まえたうえで批判や課題提起をすることは、田中氏の考察を十分に生かすためにも、議論をかみ合わせて、批判や課題提起をより的確なものにするためにも、必要であろう。そのことは、男性学とフェミニズムとの相互の連携を構築するうえでもプラスになると思う。

本稿では、1で、江原氏の田中氏に対する批判を要約し、2で、江原氏の批判が田中氏の考察の到達点を踏まえていない点を述べ、3で、そのうえで提起される課題について述べたい。

1 江原氏による田中氏に対する批判の要約

まず、以下で、江原氏の田中氏に対する批判を要約しておこう。

江原氏は、まず、田中氏の考え方を以下のように要約する:田中氏は、社会が変動したにもかかわらず、男性の生き方に対する社会的イメージには変化が生じていないというギャップに「男性のつらさ」の原因を求めている。田中氏が最も問題だと指摘するのは、「男性と仕事とのつながりが強すぎる」ことである。高度経済成長期とは違って、今日では男性でも非正規雇用が増大しており、正社員になれたとしても、昇進や昇給は期待できない。にもかかわらず、今日でも「男性は学校を卒業したら定年退職までフルタイムで働くべきだ」というルールが依然としてあり、その結果、フリーターや契約社員、無職の男性自身も、自らに対して否定的評価をしてしまう。それゆえ、男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作ることが必要である。

それに対して、江原氏は、以下のように言う。

田中氏の著作に代表されるこうした考え方を「男はつらいよ型男性学」と呼んでおこう。こうした議論は、ロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している。

日本では男性よりも女性のほうが幸福度が高いが、主観的な幸福度の高さは、客観的な生活の質の高さを意味しない。男性は、客観的には女性よりもずっと良い条件にある「仕事」においても女性より満足感が低く、「家庭生活」や「配偶者との関係」においては女性よりも満足感が高いのに、女性ほど「幸せ」とは感じていない。

「男はつらいよ型男性学」が「男らしさイメージを変える」ことに希望を見出すのは、男性は個々の要因で見れば女性よりも「満足」してもおかしくないのに、「本来あるべき男性性」イメージに縛られて、「幸福」であると思えないでいるからだろう。しかし、そのような主張は、男性たちにどこまで受け入れられるのか?

「男はつらいよ型男性学」が問題にした「男のつらさ」は、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされた先進国の製造業男性労働者の「つらさ」と、ほぼ一致している。彼らは、失業や賃金低下・不安定就労化を余儀なくされた。この層の不満が爆発したことによって、移民排斥・自国第一主義が世界を席巻している。彼らは、本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りしていくものとして、国内のマイノリティにも反感をあらわにする(A.R.ホックシールド、『壁の向こうの住人たち』、布施由紀子訳、岩波書店、2018)。

反感の背景にあるのが、「無意識化された特権意識」である。男性の「幸福度」が女性よりも低いのは、「自分の方が当然優先されるべきだ」と不満を感じているからではないか。

もしそうだとしたら、「男性が享受している特権」には注目せずに、「男性のつらさ」に焦点を当て、男性に呼びかけるという戦略は、この呼びかけに答える男性たちに、男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、「無意識の特権意識」を刺激してしまう可能性もある。

男性の雇用のあり方の変化と男性の生き方に対する社会的イメージのギャップに苦しんでいる男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」――それは「フェミニズム叩き」に繋がるかもしれない――ことの方が、ずっとわかりやすい。

しかも、田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は、社会的公正や平等などの価値観ではなく、「もはや社会が変わってしまったから」という外在的根拠であるにすぎない。

実際、「仕事と結びついた男性性イメージを変えること」は、より根本的な「(男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった)男性性アイデンティティ」を維持したままでは、非常に困難である。「男性性イメージの変革」に向かうには、より強い動機付けが必要だ。

「男性のつらさに寄り添いつつ、男性アイデンティティを開いていく」ような男性学の展開を、期待したい。

2 田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ

私は、上述の江原氏の批判に対して、以下に述べていくような疑問を感じた。

2-1 田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服

江原氏は、田中氏の主張は「男の生き方のイメージを変えること」であり、「男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作」ることであると言う。

江原氏は、そうしたイメージを変えることは、より根本的な「(男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった)男性性アイデンティティ」を維持したままでは困難だと批判している。

2-1-1 たしかに田中氏は男性の「イメージ」という語を使っているが……

たしかに、『男がつらいよ』(以下、「本書」と言う)には、「理想の男性イメージと現実とのギャップ」の類を問題にしている個所がある(p.10,16,103)。

しかし、まず注意してほしいのは、田中氏は、「男の生き方のイメージ」を変えるとは言っていないことである。田中氏は、「自分の価値観や行動」(p.16)、「男性の生き方」(p.103)を変えると言っている。すなわち、頭の中の観念的な話ではなく、おおむね具体的な行動を言っているのである。

また、本書の中で、「イメージ」という言葉が使われているのは4か所(1か所で3回使っている個所があるので、回数は6回)だけであり、そのうち3か所は、「はじめに」と「おわりに」である(p.10,16,221-222)。本によっては、「はじめに」と「おわりに」の中に本全体のエッセンスが書かれているものもあろうが、本書の場合は、そうではない。「はじめに」の後で、議論が具体化され、深められている。

2-1-2 田中氏の主張の核心は、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服

田中氏が本書で男性性について最も強調しているのは、男性の価値を「他人と『競争』して勝利すること」(p.26)に置くということである。田中氏は、その問題点を、第1章「男性はなぜ問題をかかえてしまうのか」の冒頭から語っている。すなわち、競争しているがゆえに「他人との比較」を抜け出せず、しばしば人を蔑むが、見下される側は「とてつもなく迷惑」だし、「常に勝ち続けることなど不可能」なので「すぐに自分が蔑まれる番が回ってきます」(p.28-29)と。さらに、「男は強くなくてはいけない」という圧力によって、うつ病などにかかってしまい、「弱音を吐け」ないので、気分は楽にならない(p.36-49)など。第3章では、男性が「競争」をベースにした生き方をしていることが、恋愛・結婚認識や女性との関係にも問題を起こしていることが語られており(p.122,133,144-145)、最後の第5章「これからの時代をどう生きるか」でも、「競争」の弊害が強調されている(p.204-207)。

すなわち、男性の「『競争』して勝利する」志向に対する批判が、本書全体のベースになっている。「『競争』して勝利する」志向は、伊藤公雄氏の言葉で言えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」(『〈男らしさ〉のゆくえ』新曜社 1993 p.167)のうちの、おおむね「優越志向」に相当するだろう。

こうした田中氏の主張は、「男性性アイデンティティ」の、全部ではないが、重要な側面を問い直す主張だと言えよう。この点は、江原氏が「男性性アイデンティティ」の例として、田中氏同様、「男性は強くあらねばならない」ことを挙げていることを見てもわかる。

2-2 男性中心の働き方に関しても、単に「イメージ」でなく、具体的な働き方の変革を主張

たしかに江原氏が指摘するように、田中氏は「日本では、男性と仕事の結びつきがあまりにも強い」(p.7)ことは重視している。

ただし、田中氏が第2章「仕事がつらい」で説いているのは、男の生き方の「イメージ」を変えるというより、もう少し具体的な働き方の変革である。すなわち、田中氏は、長時間労働や会社が社員に「生活態度としての能力(生活のすべてを仕事に注ぎ込めること)」を求めることの是正を説いている(p.77-83)。

すなわち、男性と仕事との関係についても、田中氏が主張しているのは、単に男性の主観的イメージを変えることではなく、男性の具体的な働き方を変革することである。

2-3 田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的

江原氏は、田中氏の主張について、「男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、『無意識の[女性に対する]特権意識』を刺激し」て「フェミニズム叩き」と呼応してしまいがちだと批判している。

しかし、2-1で述べたように、田中氏は、男性アイデンティティを呼び覚ますのではなく、むしろ崩している。そして、その方向は、以下で述べるように、むしろフェミニズムと親和的な方向である。

2-3-1 2-1や2-2の内容はフェミニズムと親和的なもの

田中氏は本書で女性差別の問題を正面から論じているわけではない。しかし、以上の2-1や2-2の内容は、フェミニズムと親和的な性格を持っている。

まず、2-1で述べた男性性アイデンティティの克服に関して、その点が明確に表れているのは、田中氏が、「『協調』するよう教えられてきた女性は、人との共感を目的としたコミュニケーションを取る傾向がある」のに対して、「『競争』を基本として育てられてきた男性」は「一方的にまくしたて、相手を言い負か」そうとしがちだが、それではダメで、「相手の話をしっかり『聴く力』を身につけることが必要です」と述べている(p.47-49)個所である。これは、男性の「競争」志向・優越志向について、女性性と対比しつつ克服すべきことを説いたものと言える。

田中氏は、また、男どうしの間で、論戦ではなく「自分の思っていることを話し、それをしっかり聞いてもらえる」(p.199)ような会話ができる関係を作る試みについても語っている。この点は、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト・プレス 2015)でさらに発展させられ、男性どうしの友だちづくりを主張している(第3章)。これは、澁谷知美氏が『平成オトコ塾 : 悩める男子のための全6章』(筑摩書房 2009)第1章で「男の友情」を提言したことに近い。『〈40男〉はなぜ嫌われるか』では、また、田中氏は、男性は、若い女性に執着するのではなく、男女間の友情を育てることを述べる(第2章、第4章)など、既成の男どうしや男と女の関係を変える主張をしている。

また、2-2の労働問題に関しても、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、同時に職場からの女性排除や職場における女性差別をも生み出している問題である。それゆえ、それらを是正することは、ジェンダー平等にとっても重要な課題である。

2-3-2 結婚や恋愛をテーマにした章では、男女関係の平等化を主張

また、本書の第3章「結婚がつらい」では、田中氏は、恋愛が若者の義務になっていることや「男はリードする側/女はリードされる側」という図式、男性が女性を性的魅力や若さばかりで評価すること、性の二重基準などについて、それらが男性にとっても問題をもたらすことを述べつつ、批判をおこなっている。田中氏は、こうした直接男女関係をテーマにしている章では、男女関係の平等化を説いている。

この章でも、田中氏は、男性には「『競争』して勝つ」志向があるために、「男性は女性に謝れない」が、そうであってはならず、素直に謝罪すべきことを説くなど(p.132-133)、男性の「『競争』して勝つ」志向と女性に対する態度の関連を述べている。

以上の2-3-1、2-3-2より、田中氏の主張は、女性差別をテーマにはしていないが、フェミニズムとも親和的であることがわかる。そして、それは偶然ではなく、田中氏が「『競争』して勝利する」男性アイデンティティの克服を主張していることと関係している。

田中氏が男性に説いているのは、女性に対する男性の「無意識化された特権意識」を刺激する方向ではなく、むしろその逆の方向であると言えよう。

2-4 「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か?

また、以上のことを踏まえると、「男はつらいよ型男性学」というネーミングが適切かどうか疑問である。

たしかに田中氏の主張は、男のつらさに焦点を当てている。

しかし、第一に、田中氏は「男が」と言っており、「男は」とは言っていない。江原氏自身も、現在は「男『が』つらい時代」だと述べつつも、なぜ男性学の型に対するネーミングでは、「が」を「は」に変えたかについて説明していない。男「は」というと、江原氏が述べているように、「男性の人生は(女性と比較しても)つらいものだ」という中の丸カッコ内の「女性との比較」というニュアンスが生じる。しかし、「が」という語の意味や田中氏の主張には、そのような比較はなく、単に「男であること」がつらいというニュアンスである。

第二に、「男はつらいよ」という名称には、「男はつらい」ことを自嘲したり、他者(社会や女性)に向けて訴えたりしているようなニュアンスがある。しかし、田中氏の本は、主に男性に向けて、自らを変えるように訴えているのであり――この点については江原氏も認識している――そうした言説とは異なる。他の男性学の研究も、全体として言えば、「男がいかにつらいか」を主張するというより、男のつらさを分析し、その対応を考えるものではないだろうか。

「男のつらさをテーマにした男性学」といった名称にしておいたほうが適切のように思う。

2-5 田中氏が男性性の変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か?

江原氏は、田中氏のような男性学は、「いわゆるロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している」と述べているが、その点を、以下のような批判に結びつけている。

(1)田中氏が男性性を変えるよう呼びかけても、「男性からすれば、『男性性を変える』ことよりも『男性の雇用をもと通りにする』こと――それは『フェミニズム叩き』に繋がるかもしれない――の方が、ずっとわかりやすい」

(2)田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は「『もはや社会が変わってしまったから』という外在的根拠、『昔のような男性性を維持しても、メリットはない』という合理的根拠であるにすぎない」

2-5-1 たしかに田中氏自身がそうした主張を述べているが……。

たしかに田中氏は、「はじめに」で、現在は、従来のように男性が正社員として就職し、結婚して家族を養い、定年まで勤めあげるという「普通の男性」としての生き方ができなくなったことに、「多くの男性が『生きづらい』と感じる根本的な原因があります」(p.5-6)と述べている。

しかし、本書全体の内容を見ると、田中氏の議論は、上の発言とは異なっている面が非常に大きい。

2-5-2 全体を読むと、田中氏は上の世代の男性の状況にも批判的

まず、2-1で述べた「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの問題や2-3-2で述べた恋愛や結婚の問題は、どう見ても、基本的には上の世代からあったものであり、ロスジェネ世代になって初めて生じた問題ではないだろう。

さらに、2-2の仕事や雇用の問題についても、田中氏は、団塊の世代の定年退職者が、それまで仕事一筋で生きてきたために、虚脱感や喪失感に悩んでいることを、「昭和的男らしさ」の問題として指摘している(p.91-94)。また、田中氏は、ある定年退職者の男性が、現役時代を振り返って「残念」だと述べたこと、すなわち、サラリーマンという「普通」の生き方しかできず、自分にはその程度の能力しかなかったのが「残念」だという気持ちを訴えたことを紹介して、「すべての男性が輝かしい業績を達成できるわけではない」以上、「『男らしさ』へのこだわりが、年齢にかかわらず男性の『生きづらさ』につながってしまう」と指摘している(p.202-204)。

社会問題という面から見ても、男性の雇用の非正規化が注目されたのこそ比較的最近だが、長時間労働や過労死に関しては1980年代には社会問題として注目されていた。

以上から見て、田中氏の主張は、上の世代の状況に関しても、全体的には批判的なものだと言えるだろう。

たしかに低成長期になったことによって「『競争』の先にいる勝者はごくわずか」(p.51)になったといった変化はあろうが、それは部分的なものであろう。

とすれば、田中氏としては、自らの考察は現代日本におけるジェンダーの根本問題についてであることを述べつつ、近年深刻さを増している面もあると主張したほうがよかったといえよう。

その意味で、江原氏の指摘は、田中氏の主張のしかたの弱点を突いていると思うが、田中氏の考察の到達点を踏まえるという面では弱点があると考える。

すなわち、田中氏が論じている男性の生きづらさの多くは、「男性の雇用をもと通りに」しても解決しないと思うし、田中氏が男性性の変革を求める主な理由が「社会が変わってしまったから」であるとも言えない。

2-6 男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性

2-6-1 男としての困難や苦労を重視することは、世間一般の認識にすぎない

江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目せずに、「男のつらさ」に焦点を当てていることを問題にしている。後述のように、私も、「男性が享受している特権」に注目しないことは不十分であり、それに対する批判には根拠があると思う。

しかし、「男のつらさ」に焦点を当てることが、「『無意識の特権意識』を刺激してしまう可能性もある」という点については、どうだろうか?

江原氏は、反リベラル派の男たちがマイノリティに反感を感じるのは「本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りして」いくからだと説明している。私が素朴に疑問を感じるのは、フェミニズムに対する「無意識の特権意識」にもとづく反感は、べつにつらい状況になくても起きるのではないか? ということである。たとえ幸せであっても、「幸せを脅かす者」に対する反感が起きるのではないだろうか? この点については、さらなる解明が必要だと思う。ただ、ネット右翼に関しては、それを貧困や不安定雇用と結びつける認識は、すでに実証的な調査研究によって否定されている(永吉希久子「ネット右翼とは誰か」樋口直人ほか『ネット右翼とは何か』青弓社 2019 p.23-24,34)。

また、男であるがゆえの困難や苦労を重視することは、男性学独自の主張ではまったくない。「仕事で苦労をしている夫を癒すのが、妻の役割です」といった形で語られる社会の一般通念であり、むしろ現状を肯定する文脈で語られる場合のほうが多いのではないだろうか?

もしも「男がいかにつらいか」ということだけを訴えて、それに対して何の対応も語らない「男性学」があれば、「『無意識の特権意識』を刺激」することもありうるだろうが、田中氏らの男性学がそうしたものではないのは、ここまで述べてきたとおりである。

2-6-2 男性学の独自性は、何らかの男性性についてのジェンダー平等の方向への変革にあり、右派とは方向性が逆

男性学の独自性は、一つは、男性自身が男性の困難を「つらい」と言ってもいいと認めることだろう。しかし、メンズリブは、世間一般のように、そうした訴えを女性たちに向けるようなことは基本的にしていない。メンズリブは、男たちの悩みに対して男たちが応答するために、ワークショップや「男性相談」に取り組んできた。田中氏の著作も、男性が男性たちに対して自らを変えるように訴える著作であり、この点については、江原氏による紹介からも明確である。

もう一つのより重要な男性学の独自性は、男性のつらさを語るだけでなく、必ず何らかの点で、男性性や男性役割自体を、ジェンダー平等な方向に変革する視点が入っていることにある。2-3で述べたように、田中氏もその例に漏れない。たとえば田中氏は、男性の自殺率の高さについても、「弱音を吐けないことが原因の一つ」(p.76)と述べて、「男は強くなければならない」という男性アイデンティティの問題として捉えている。

それに対して、右派の主張は旧来の男性性の回復を主張するものである。江原氏が今回参照したホックシールドも、アメリカの右派の男性性に対する訴えについて、次のように描写している。「トランプは、男たちを『もう一度偉大にする』ことも明確に約束した。“男たち”とは、拳を撃ちつけ、銃を持ち歩くマッチョな男と、野心溢れる起業家の両方を指す」(ホックシールド前掲書p.325-326)。すなわち、旧来の男性性を喚起するものであり、男性学とは相容れないものだと言えよう。

2-6-3 日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュに使われた例は見当たらない

男性学が右派とは方向性が逆である証拠に、日本のメンズリブがバックラッシュ的運動をした例がないのはもちろん、日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュ派に使われた事例も見当たらない(注1)。アメリカの状況についてはよく知らないが、ホックシールドも、そのような事例は挙げていない。

もし今後日本でそれがありうるとしたら、アメリカの「男性の権利派」のよう反フェミニスト的男性運動や保守的な立場の男性運動が盛んになって、それらと右派が結びつくようなケースではないか。

2-7 田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか?」――私の場合

この点がどうであるかを実証するためには、何らかの調査が必要だろうが、とりあえず私自身の場合はどうだったか?

私は、職業的研究者になりたかったのだが、結局なれなかった。そのことに少し寂しい気持ちを抱いている。

そうした中、田中氏の『〈40男〉はなぜ嫌われるか』を読んで、ドキッとした。そこには、「競争は終わった。もう逆転の可能性はない」(p.122)と書かれており、まさにそのとおりだったからだ。

しかし、田中氏は続けて、「ただ、ほとんど全ての40男の夢は実現しなかった」(p.120)と述べている。この田中氏の言葉によって、私は、こうした問題は私だけの話ではない、自らの男性としての意識のあり方を含めた構造的な問題であることを認識させられた。

さらに田中氏は言う。「冷静になって振り返ってみれば、この40年の間に抱いてきた夢は、そもそもすべて他人事だったのではないか」「自分の頭で考え、試行錯誤し、生き方を見つけることができなければ、出世レースを続けていようが、『普通』の人生を歩もうが、『普通』から脱落しようが、全く同じである」「だからこそ、40男は夢を持つ必要がある。自分がどのような人間なのかを理解し、自分が何をしたいのかを考える」(p.131)と。

上の個所を読んで、私には、まだ、男性性の現れとしての競争原理に支配された世俗的価値観に囚われているところがあるのではないか、と反省させられた。

また、私はフェミズムにも少し関わっているが、その面でも、私は、ひょっとしたら惰性的に活動を続けているだけで、本当に自分の頭で考えて、自分が貢献できているかどうかや自分が何をしたいかを問いなおすことがおろそかになっているところがあるのではないか、と考えさせられた。

田中氏は、管理職になった友人が、競争原理にもとづく「夢」を持つのではなく、「自分の部署では定時に帰れる体制を作りたい」と言っていることについて、「素晴らしい夢」だと言っているが(p.132)、そもそも労働問題やジェンダー問題は、そうした世俗的価値観には乗りにくい。もちろん、現実にはそれらの中でも世俗的価値観が影響力を持つことはあるが、そこから脱却しなければ運動は発展しないだろう。その意味でも、田中氏が説くような姿勢を持つことは、フェミニズムを含めた社会的活動にとってプラスになる。

私の場合も、フェミニズムとの関わりを含めた、生き方をしっかりさせる上でプラスになった。

田中氏が述べていることがまったく新しい考えだというわけではないだろう。たとえば、伊田広行氏が「主流秩序論」(伊田広行『閉塞社会の秘密―主流秩序の囚われ』アットワークス 2015など参照)として説いていることとも近いし、伊田氏の方がより議論が深まっている面もあろう。しかし、田中氏は田中氏なりの経験や研究から語っているからこそ、独自の説得力があった。

私の場合、フェミニズムをそれなりに受け入れている点では、平均的な男性と同一ではない。しかし、上のような反省をすること自体は、田中氏の本の素直な読み方だと思うので、その意味では私個人の特殊な感想ではないように思う。

ただし、自分自身の問題として考えても、田中氏が語るような男性性と女性抑圧との関係については、もう少し議論を展開しないと見えてこない面があることはたしかである。

3 田中氏の考察の到達点を踏まえたうえで課題の提起

3-1 課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯

最初に触れたように、私も、田中氏の主張はジェンダー平等の観点から見ると課題を残しているという点では、江原氏と同感である。以下述べるように、江原氏の批判の中には、重要なポイントで当たっている点があると思う。

ただし、これまでの検討からわかるように、田中氏のようなフェミニズムに親和的な男性学の課題は、「無意識の特権意識を刺激することによって、フェミニズム叩きにならないようにする」といった低い水準のものではないだろう。より高い水準のもの、すなわち「フェミニズムにより明確に接続すること、フェミニズムと連帯すること」だと考える。

男性学にはこうした課題があることは、すでにメンズリブや女性学で指摘されてきたことである(注2)。もし田中氏のような考察とフェミニズムとがより明確な接続をして、フェミニズムとの連帯がおこなわれれば、フェミニズムにとっても利益になるだろう。

もちろん個別の研究者や著作がすべての課題を担えるわけではない。また、以下述べるようなことは、田中氏もわかっているけれども、本書では捨象しているにすぎない面もあろう。

しかし、私は、田中氏の主張がフェミニズムと接続し、連帯する上では、どのような課題があるかは明確にしておく必要があると思う。それは、トータルな男性学やジェンダー論として必要なことだと思うからである。

私は、田中氏の主張には、以下のような課題があると考える。たとえば、私が授業で田中氏の本を取り上げるとしたら、以下のような点を補足するであろう。

3-2 男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識

3-2-1 両者の関係を認識し、男女差別全体に視野を広げる必要性

江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目していないことを批判している。

先述のように田中氏の議論はフェミニズムと親和的ではあるが、たしかに女性との関係の変革自体については、第3章以外では、正面からは述べていない。また、田中氏は、女性が置かれた被差別的状況に対する男性の責任や男性の加害については、ほとんど語っていない。

伊藤公雄氏の言葉を使えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」のうち、田中氏が論じているのは「優越志向」であり、他の2つの志向には目を向けていない。もちろん上の3つの志向は関連しているから、田中氏のように、男性の「『競争』して勝利する」志向を、「相手を言い負か」そうとすることや「女性に対して謝れない」ことと結びつけて述べることもできる。しかしながら、「優越志向」と「権力志向」と「所有志向」とは、ある程度意味が異なっている。たとえば、伊藤公雄氏は、「権力志向」を、「家庭」における権力として説明し、「所有志向」を、「女性」に対する所有として説明している(『〈男らしさ〉のゆくえ』p.112-114)。

そうした「権力志向」や「所有志向」についても正面から見つめることは、田中氏が説いている男性性の変革にとっても必要ではないだろうか。

なぜなら、田中氏が指摘する、男性が仕事中心の生活をして「他人と『競争』して勝つ」志向は、女性に対する「所有」ないし「支配」志向とも関連しているからである。

すなわち、男性が仕事において「競争」して勝とうとするのは、もちろん自分の収入や名誉のためであるが、それだけでなく、往々にして、それによって女性を「所有」したり、その女性を養うことによって「支配」したりする志向も含まれている。

それゆえ、男性が仕事中心の生活をすることや「『競争』して勝つ」志向から完全に脱却するためには、女性に対する所有・支配志向からも脱却することが必要である。

もちろん社会における男女差別は、個人的な志向によってだけでなく、社会的な制度によって支えられているので、社会的な男女差別についても認識し、なくす努力が必要になる。

田中氏がその後出版した『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(岩波書店 2019)では、「仕事」から排除された女性の状況の問題にも触れているが、それに加えて、「競争」に参加した女性が被るさまざまなハンディキャップの問題にも視野を広げて「競争」の問題を論じる必要も出てくるだろう。

3-2-2 ジェンダー関係変革に対する男性の動機の強化

江原氏が、男性性の変革には「より強い動機付けが必要だ」と述べている点も、私は重要だと思う。

江原氏は、田中氏が男性性を変えることを主張する主な理由として、「社会的公正や平等などの価値観」を挙げていないことを問題にしている。たしかに、そうした価値観は動機として重要だ。そのほか、男性が女性の立場に身を置いて考えること、すなわち「共感」という動機も有効だろう。

ダイアン・グッドマン(Diane Goodman)は、Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups, Routledge, 2011(出口真紀子監訳、田辺希久子訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』上智大学出版 2017)で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、(1)被抑圧集団の人々への「共感」、(2)自分の信念などの「道徳的原則、宗教的価値」、(3)被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分けている(p.121-156[日本語訳p.180-232])。

江原氏が言う「社会的公正や平等などの価値観」は、グッドマンの分類では、(2)の「道徳的原則、宗教的価値」に当たる。それに対して、田中氏の主張は、主に(3)の「自己利益」からの主張だと言える(注3)

グッドマンは、(1)~(3)は、「それぞれが単独で社会的公正の支持を促す力を持っている。しかし多くの場合、それらは互いに関連性を持ち、複合的にはたらきかけることでより強く行動を促すことができる」(同上p.131[日本語訳p.195])と指摘している。

とすれば、(3)の田中氏の観点に、(1)や(2)の観点をもっと加味することが重要だと言える。すなわち、自分自身のためだけでなく、女性のため、社会的公正のためでもあることを認識することは、男性性の変革にとってより強い動機を持つことにつながるのではないか。

3-3 労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯

3-3-1 労働問題におけるフェミニズム視点明確化の必要性

具体的な課題のレベルで言えば、長時間労働の解消や「生活態度としての能力」評価の是正などは、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等にとってプラスではあるが、十分条件ではない。この点は、やはりフェミニズムの視点を入れることによって、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等を実現する必要がある(注4)

田中氏が論じているような男性性の問題点は、男性が「妻子を養う」(p.66)役割と不可分である。とすれば、そうした男性性の問題点を完全に消滅させるためにも、家庭での性別分業や職場の性差別を完全に消滅させて、男女が共に自立し連帯した社会を実現する必要がある。その意味で、フェミニズムの視点を明確化することは男性解放にとっても必要だと言える。

3-3-2 フェミニズムとの連帯によって、男性解放の展望の現実性を高める

江原氏は、田中氏の主張を批判して、男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」ことの方が、「ずっとわかりやすい」と述べていた。

先述のように、「男性の雇用をもと通り」にしても、田中氏が主張していることは、ほとんど実現できない。また、現実的に見ても、かつての年功賃金のようなものを復活させる展望はないだろう。ホックシールドが描写しているアメリカの右派も、日本の右派も、実際には労働者の生活や権利を守るために貢献しておらず、公務員やマイノリティを攻撃しているだけである。

とはいえ、「わかりやすさ」という点は重要だろう。なぜなら、男性の生き方を変えられる社会的展望をわかりやすく示すことができるか否かは、男性が変革への志向が持てるか否かに関わってくるからだ。

今日、それを示すことは容易でないが、フェミニズム運動との連帯は、展望を切り開く上でプラスになるだろう。その意味でも、フェミニズムへの偏見(江原氏の言う「特権意識」を含めて)を克服することが重要だと思う。以下、この点を、正規雇用と非正規雇用に分けて、田中氏の主張に即してまとめてみる。

3-3-2-1 正規雇用に関して

2-2の男性の働き方の問題に関して言えば、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、職場での女性に対する排除・差別をも生み出しているからこそ、女性運動もそれらに対して批判してきたことを認識することが重要ではないだろうか。

たとえば、女性労働運動は、男女雇用機会均等法の制定や改正の際に、「男女共通の労働時間規制」を求めて闘った。また、賃金の女性差別をなくす運動は、競争をあおるような能力主義や恣意的な人事考課ではなく、「同一価値労働同一賃金原則」を主張して闘ってきた。そうした女性解放運動を支援したり、共闘したりしていくことが重要なのではないか。

3-3-2-2 非正規雇用に関して

『男がつらいよ』は、非正規雇用の男性に関しては、2ページしか費やしておらず、「イメージと現実のギャップに苦しむ男性たちを減らすためには、現代の経済状況に適応した新しい男性の生き方を創造するのが近道なのです」(p.103)としか言っていない。「イメージ」という漠然とした語を、田中氏が「はじめに」以外で使っているのはこの個所だけであり、この個所に関しては、江原氏の指摘が当たっているように思う。

田中氏が具体的なことを語れない理由は、田中氏が本書について、「社会のあり方や他人の考えを変えるのは難しいですが、自分の価値観や行動は自らの意志で修正できるはずです。やれることからやっていこうというのが、この本の考え方になります」(p.16)と述べていることと関係しているように思う。正規雇用の場合は、若干ながらも個人で働き方を選べる面があるのに対して、非正規雇用の場合は、低賃金などが問題だが、この点は労働者個人には決定権がまるでないからだ。

本書についての田中氏の上の考え方は理解できるが、本書の中でなくとも、どこかで社会運動的な観点にもつなげていく必要があるのではないだろうか。

ただし、田中氏は、本書の最後で、「競争の結果として生まれる格差が、誰もが納得できる範囲に収まっているかどうかについて考えてみてほしいと思います」(p.216)と述べており、この点は、均等待遇や同一価値労働同一賃金原則の話につなげていくことができるだろう。

非正規労働に関しては、丸子警報器事件以来、女性運動が前進を勝ち取ってきた面が大きいので、そうした面から、フェミニズムと結びつくことが必要になってくると思う。

おわりに――女性抑圧や男性性の否定的側面と社会全体の抑圧との関連に注目する観点も必要

以上の3で述べたことは、べつに目新しい話ではない。

しかし、以上のように田中氏の考察の到達点をきちんと踏まえて議論をすすめたことによって、江原氏の批判と田中氏の主張がよりかみ合ったものになり、議論がより具体的なものになり、展望がより明確になったとは言えるのではないだろうか?

私自身、今回の文章をまとめてみて、自分なりに田中氏の考察をフェミニズムに結びつけて理解することもできたし、逆にフェミニズムの立場から田中氏の考察を受け止めることもできたようにも思う。

ただ、フェミニズムと接続することは、そのぶん自分の思想や行動を問い直すしんどさを多く抱え込むということでもある。

それを乗り越えるためには、私は、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」という大きな視点を持つことが一助になるのではないかと思っている。男性性という点から言えば、男性学では「男らしさ」の類が男性にも抑圧になっていることが論じられるが、私は、「男らしさ」が、より広く、よりさまざまな社会全体の抑圧と関係している面を見ることが重要だと思っている。

すなわち、男性の女性支配が、男性にも「コスト」を課しているというだけでなく、男性にも女性にも「社会全体の抑圧」という巨大な「コスト」を課していることを認識することで、男性が被る「コスト」もより大きなものとして捉えることができるのではないか。そのことは、男性が自らの「特権」を見直したり、女性差別に反対したりする動機をより強いものにすることなると思う。

ただし、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」と言うだけでは抽象的である。それをより具体化するための一つの方法として、男性学や男性性研究で論じられてきた問題を学び、深めることは重要だと思う。そのこともあって、今回の文章を書かせていただいた次第である。

[2019年10月7日追記]文章全体の趣旨を変えない範囲で、少し文を修正させていただきました。

(注1)(この点については、twitterで「家来」さんも「フェミニスト叩きをする論者が、実際に田中俊之の論を誤読あるいは悪用したケースはあるのだろうか?」と疑問を呈している(2019年8月25日23:25)(https://twitter.com/kerai14/status/1165872850328141824)。「家来」さんは、その後さらに「自分は“懸念”のレベルであったとしても、あまり江原さんの論に説得力を感じないのですが(……)そういう“悪用”をもしも見かけたら、それはきちんと批判したいですね。」と述べている(2019年8月26日午後4:47)(https://twitter.com/kerai14/status/1165893491563491328)。この点もおっしゃるとおりである。たしかに誤用の可能性はあるとしても、重要なのは、田中氏の論は、そうした誤用が誤用であることを指摘できるような論理なっているだということだと私は思う。

(注2)2006年に、メンズセンターのニューズレター『メンズネットワーク』79号で、大山治彦氏が以下のように述べている。
元々このメンズリブになる時っていうのは(……)ある程度フェミニズムや女性学を勉強していた人達、あるいは女性グループでそういったジェンダーの訓練を受けた男達が中心でした。だからそこのところが非常に前提としてあったのですよね。その加害者性であるとか社会と構造を関わらせてみるっていうのは、ある種当然と言うか(……)これが裾野が広がる中で、そういったフェミニズムとかジェンダーの勉強をしないまんまというか、出会えないまま男性のグループに直に来る人が増えてきたっていうところに、少し問題という部分もあるのかなというふうに思います。しかし私は実を言うと、ちょっと極端なものの言い方になりますが、全員が全員わからなくても、わからなくてもいいってわけじゃないんですが、それだけの興味を持つことは難しいだろうと、残念ながら思っています。だけどせめてグループの中核になっている人とか、自分の問題としてこのメンズリブを考えたいと思っている人には、それが届いたらいいなというふうに思うんですね。(p.28)
また、今年の日本女性学会の『学会ニュース』第146号(2019年5月)には、以下のようにある。
ジェンダー差別の問題には反応が悪い学生たちが、「男も苦しいんだ」というタイプの男性学の議論だけをつまみ食いしてくる。
上の2つの文は、いずれも、男性学やメンズリブを学ぶことが、自動的にはフェミニズムへの理解に結びつかないことを問題にしている。

(注3)田中氏は、第3章では、(1)(2)の観点にも言及しているが(たとえば、「女性の立場から考える」[p.133]、「性の二重基準」は「女性差別」[p.131]など)、第3章も、全体としては、たとえば「女性を性的な魅力」だけで評価しないことは「自分がいい相手に巡り合うためにも」必要だ(p.127)というふうに、男性自身のために書かれている(そのこと自体は重要だが)。

(注4)田中氏も「男性が家事・育児に責任を持たなければなりません」(p.209)と述べているが、その理由は「フルタイムで働く女性の増加に対応するために」という位置づけにとどまっている。

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プロフィール

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遠山日出也
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これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」の中で取り上げてきた日本の社会や運動についての記事をここに書くようにしました。ご連絡は、tooyama9011あっとまーくyahoo.co.jpにお願いいたします。

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