社会の片隅から

これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。

拙稿に対する西井開さんの批判に応える

遠山日出也

『女性学年報』40号(2019年)に掲載した拙稿「最近の男性学に関する論争と私(PDF)」に対して、2020年1月9日、西井開さんからtwitterでご批判をいただきました(ご批判を含む西井さんの一連のツイート)。

西井さんは、『現代思想』2019年2月号に、「痛みとダークサイドの狭間で : 『非モテ』から始まる男性運動」という、理論的・実践的に斬新な報告をお書きになった方です。また、「Re-Design For Men」というグループの代表としても活動しておられます。

西井さんの拙稿へのご批判は2点あります。以下、それぞれについて応答させていただきます。それぞれについて、まず、最初に太字で要点をまとめています。

批判1:階級支配の視点を「持ちすぎた」ら、性支配の問題は矮小化される。
 →拙稿は、階級支配(や社会全体の抑圧)と性支配と間には密接な関連があるから、前者の克服のためにも後者の克服が必要であることを主張しているので、性支配の克服の必要性はいっそう強調される。


拙稿に対する西井さんのご批判の一点目は、以下です。
「江原由美子がマルクス主義フェミニズムへの危惧として書いたように、階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまうことがあると思う。階級的な問題がなくなれば男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか、という」(西井さんのツイート

まず、西井さんは、江原由美子氏が、マルクス主義フェミニズムへの危惧として上のようなことを書いたと述べておられますが、私は、まだ、江原氏がそのように書いている文献や、そのように要約できるような議論をしている個所は探し当てられていません(1)

そこで、とりあえず、ここでは、拙稿に対する「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」という文言のみにもとづいて、そうした危惧について、私の考えを述べさせていただきます。

私は、もし「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」としたら、それは、何らかの意味で、両者を「あちらを立てれば、こちらが立たず」というふうに、相反するものと捉えているからだと思います。

ひょっとしたら、両者を単純に並列的に捉えている場合も、場合によっては、そうした事態が起きるかもしれませんが、これは回避することが可能でしょう。もし必然的にそうなるとしたら、重層的な差別に取り組むことができなくなりますから……。

しかも、拙稿は、単に「性支配だけでなく、階級支配の観点を入れる」ことを主張しているのでなく、随所で両者の密接な「関連」を主張しています。その関連というのは、「性支配は、階級支配の強化、ひいては社会全体のさまざまな抑圧の強化と密接に結びついている」(p.35)ということであり、それゆえ「性支配を克服することは、階級支配からの解放、さらには、社会全体の解放につながる」(p.37)ということです。

両者の関連性を上のように認識していれば、階級支配を本当に克服しようとすればするほど、性支配も克服しなければならないことがわかりますので、上のような危惧は、当たらないと考えます。

この点については、拙稿で、私自身の経験としても、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」、「女性が完全な自由を獲得することなしに、プロレタリアートは完全な自由を獲得することはできない」と認識するようになったことで、ピンと来なかったり抵抗を感じたりする女性の要求に関しても、以前よりは受け止める姿勢が強まったことや、運動に継続して参加できるようになったことを述べています(p.29)。

ただし、江原氏の著作は非常に多いので、私が読んでいないものも多数あります。もし江原氏が上記のような危惧を示された出典をお教えいただければ、そこに、そうした危惧のより詳しい根拠が書かれているかもしれませんので、その根拠を含めて検討させていただきたいと思います。

また、階級支配と性支配との関係をどう捉えるかは、拙稿でも触れたように、マルクス主義フェミニズムの中においてさえ、「二元システム論」と「統一理論」との論争としてあらわれているように、それ自体が大きなテーマです。ひょっとしたら、西井さんは、この点について、拙稿にあまり同意しておられないのかもしれません。

今回の拙稿は、性支配と階級支配との関連性を立証すること自体はテーマにしていませんが、私が、両者の関連を以下のように認識していることは述べています。
 ・日本は欧米に比べて、女性の権利も、労働者の権利も、劣悪な状態にあり、その両者の状況には関連があると思う(p.28-29)。
 ・[家父長制を支える]カップル単位制(家族賃金制度)はトータルに見れば資本の搾取を強化する役割を持っている(伊田広行『性差別と資本制』より)(p.33)。
 ・「長時間労働や過労死は階級支配と性支配(家父長制的男性性)の両方から生まれるのであり、その両者が相互に結びついている」(p.33)。
 ・1980年代以後、新自由主義によって階級支配が強化されたが、それは性支配の温存・強化を組み込んでいた(p.34)。
 ・日本には女性経営者が極めて少ないという性支配の強さと、過労死を生むような階級支配の強さとは関連があると思う(p.34)。

さらに、より広い問題である、性支配(の克服)と社会全体の抑圧(解放)との関係については、私は、以下のように認識していることも述べています。
 ・今日より多くの男性が、より高い下駄をはかされていた戦前は、男性にとって良き時代だったどころか、あらゆる人権が抑圧され、膨大な戦死者を出していた時代だった。つとに伊藤公雄氏は、ファシズムは、〈男らしさ〉の革命であったことを明らかにしている。(p.33)
 ・スウェーデンでは、単に女性の地位が高いだけでなく、労働者、パートタイマー、高齢者、障害者、在住外国人、性的マイノリティの地位も高く、「デモクラシーの実験室」と呼ばれていることは、性支配の克服とさまざまな抑圧からの解放との間には関連があることを示唆している(p.36)。
 ・男性による女性支配と人間による自然支配とが結びついていることを批判するエコロジカル・フェミニズムは、女性解放や性別分業の克服なしには、人間の生存基盤である自然を守ることもできないことを指摘している(p.37)。
 ・憲法24条に対する攻撃は、憲法9条や他の人権条項に対する攻撃と不可分なので、それらに対抗するためにも、24条の理念を実現すべきであることが、多くの視点から説かれてきた(p.37)。

もし、西井さんが拙稿の上のような認識について異論や反証をお持ちでしたら、具体的にご指摘いただくと、議論が深まると思います。

また、「階級的な問題がなくなれば、男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか」という危惧についてですが、私は、階級的問題とジェンダー問題の片方だけをなくすことはできないと考えています。

この点は、日本の社会運動の教訓としても言えることだと思います。たとえば、竹信三恵子氏は、1986年の男女雇用機会均等法の制定当時の労働組合の多くが、「家族を養う」ことを目標にしていたために、残業規制にさほど関心を示さなかったことを指摘しています(『家事労働ハラスメント : 生きづらさの根にあるもの』岩波書店 2013、p,32)。また、伊田広行氏は、つとに、男性中心の労働組合が、シングル単位視点を持てなかったことが、今日の無権利な非正規雇用の蔓延を招いたことを指摘しました(『21世紀労働論:規制緩和へのジェンダー的対抗』青木書店 1998)。これらは、いずれも、当時の労働組合にジェンダー平等の観点が弱かったために、労働時間や非正規雇用についての資本の専横を規制できず、今日では、それによって、男性を含めた多くの労働者が苦しんでいるという教訓になると思います。

ただし、社会の一部の個別的状況については、階級とジェンダーの片方だけを解決した(ように見える)場合もあると思います。たとえば、西井さんの危惧とはある意味で逆の例ですが、外国人の家事労働者の導入によって、女性の家事負担の問題を解決したという話ならば、少なくない国にみられるでしょう。もし西井さんがそうした状況に対する危惧をお持ちでしたら、具体的な議論をしていきたいと思います。

批判2:階級支配という視点を入れることで、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」(抑圧集団と被抑圧集団の相違を無視して経験の類似性を強調しすぎること)に陥る危険が生じる。
 →(1)階級支配の視点からは、たしかに「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生じるが、拙稿は階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているので、「女性は、男性同じく階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさもある」という認識になる。
 (2)グッドマンの指摘は、被抑圧集団の経験に共感する際の落とし穴についてのものである。拙稿が階級支配と性支配の関連を述べたのは、女性に共感する手法としてではなく、性支配の克服が自らの利益にもなることを説くためなので、その点を認識することによって、むしろそうした落とし穴を回避する努力も強まる。
 (3)拙稿は、男女に共通した階級支配を言うことは、男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがある――たとえば、日本の女性の雇用労働時間も欧米の男性に比べて長時間である――ことを過少評価しなくなるためにも重要であることも述べている。


拙稿に対する西井さんのご批判の二点目は、以下です。
「また、階級支配という視点を入れることで男性たちが主体的にジェンダー関係の変革に向かう、という実践的意義が触れられているが、本文でも引用されているダイアン・グッドマンの『真のダイバーシティをめざして』の中で紹介されている「同一視のパラドックス」(優位集団が劣位集団との相違点やそれが起きる社会的文脈を無視して経験の類似性を強調しすぎること)が起きる危険性―「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」と考えること―にも注意すべきと思った。(これは遠山さんも危惧されている)。」(西井さんのツイート

(1)たしかに(大多数の)男性も女性も階級的には被支配階級だと認識すれば、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生まれます。

しかし、まず前提としてご確認いただきたいのは、拙稿は、階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているということです(p.34-35)。ですから、拙稿からは、「女性は、男性同様に階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさがある」という認識が出てきます。

(2)次に、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」の危険性と拙稿の内容との関係について述べます。

拙稿の「おわりに」でも述べているように(p.40)、ダイアン・グッドマンは、Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups(邦訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』)の中で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、1.被抑圧集団の人々への「共感」、2.平等、他者の苦痛の緩和といった「道徳的原則、宗教的価値観」、3.被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分類しています(p.122、邦訳p.181)。

グッドマンが、「同一視のパラドックス」の危険性を指摘しているのは、上記の1.の「共感」に潜む落とし穴、すなわち、「マジョリティの人々に対して、マイノリティの人々の経験に共感させようとする場合」の注意点を述べるためです(p.138、邦訳p.204-205)。

それに対して、私が性支配と階級支配との関連を述べたのは、なにも、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に「共感」する手段としてではなく、男性が性支配を克服することが、自らの階級的抑圧を克服するためにも必要であることを主張するためです。すなわち、3.の「自己利益」というモチベーションを喚起するためです(2)

上でグッドマンが指摘しているように、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に共感しようとする際には、「同一視のパラドックス」を含めた、さまざまな「落とし穴」があるわけですが、その落とし穴にはまらないようにするためには、それなりの努力が必要です。

たとえば、ご承知のように、グッドマンは、「同一視のパラドックス」の一例として、白人が「黒人が、自分以外が全員白人である場に1人だけいるという状況」について考えようとする場合、その白人が「自分も他の人が黒人である場に、たった1人、白人として参加したことがある」という経験にもとづいて、その居心地の悪さや疎外感を語るという事例を挙げています。グッドマンは、前者の状況と後者の状況には違いがあるにもかかわらず、それを無視することを問題にしているわけです。こうした「同一視のパラドックス」を克服するためには、単に自分の経験を思い出すだけではなく、当然、黒人が置かれた被差別状況について、いろいろと学ぶ努力が必要になると考えられます。男性と女性の場合も同じでしょう。

そうした努力をするモチベーションを高めるためには、「男性が性支配を克服することが、自らの階級的被抑圧状況を克服するためにも必要である」ということを理解することが一つの力になると思うのです。ですから、むしろ、拙稿の認識は、ご指摘の「同一視のパラドックス」にも陥る危険性を防ぐ力にもなると思います。

(3)また、私は、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という側面を認識すること自体も重要だと思います。これは、拙稿で「二段構えで考えることの第二の実践的意義」として述べているように、「男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがあることを過少評価しなくなる」(p.35)ためです。

拙稿でその例として挙げているのは、「日本の女性は、日本の男性よりも週労働時間が8時間前後短いにもかかわらず欧米主要国の男性よりも長時間働いている。このことは日本ではフルタイム労働者は女性も働きすぎであることを意味する」「女性の場合は、多くの場合、その上に性差別の産物である家事労働時間の長さが加わるので、非常に深刻な状況になる」ということを見逃しにくくなる、ということです。

他にも似たような例は挙げられるでしょう。たとえば、自殺率は、男性の方が女性よりずっと高く、また、日本の男性の自殺率は、国際的に見ても高いわけですが、日本の女性の自殺率も、男性に比べれば低いにもかかわらず、国際比較をすれば、むしろ男性より順位が上です(舞田敏彦「日本の女性の自殺率」データエッセイ2018年8月20日)。自殺率は、階級の問題だけでなく、ジェンダーを含めたさまざまな社会全体の抑圧が反映していますが、上と同様のことが言えると思います。

拙稿では展開できませんでしたが、性支配と階級支配との関連を捉えることは、「女性活躍」など、現在の新自由主義的な資本主義の女性活用政策や男性ジェンダーに関する政策に対してきちんと対峙する上でも重要ではないかと思います。

ナンシー・フレイザーは、「第二波フェミニズムは、ネオリベラリズムという新精神に、鍵となる成分をはからずも提供したのではないか」と述べて、第二波フェミニズムと新自由主義の親和性を問題にしました(ナンシー・フレイザー著、関口すみ子訳「フェミニズム、資本主義、歴史の狡猾さ」『法學志林』109(1)、2011年)。菊地夏野さんは、フレイザーの議論を日本に紹介しつつ、フレイザーの主張は女性運動が一定の支持や広がりを得ているアメリカ社会だからこそ成立する批判であると述べ、日本では行政や企業がフェミニズムと見紛うようなメッセージを発して政策や施策をおこなっていることに注目して、近年の日本のジェンダーに関する法制(均等法、男女共同参画社会基本法、女性活躍推進法)などを検討し、日本における「ネオリベラル・ジェンダー秩序」を論じました(菊地夏野『日本のポストフェミニズム:女子力とネオリベラリズム』大月書店 2019)。

フレイザーの場合、上のような見地に立って、「社会主義フェミニズムの理論化を再生できたらと願う」と述べています。もちろんそれは「時代遅れとなった二元体制論を再活用」することではなく、「最近のフェミニスト理論の最良のものと、資本主義に関する最近の批判理論の最良のものとを統合」するということです(フレイザー前掲論文p.28)。また、菊地さんは、「新自由主義や植民地主義という概念で問題化される資本と国家の絡まった権力構造をフェミニズムが批判的に見据えることができていない」ことを問題にしています(菊地前掲書p.185)。

こうした問題は男性学やメンズリブも無縁ではないと思います。というのは、メンズリブは、社会運動との関わり自体がまだそれほど強くないと思うからです。この点については、拙稿中でも、「『男らしさ』を押しつける社会構造自体を変革する(……)社会的な働きかけがまだまだ手薄」だという、新聞記者の指摘を紹介したり(p.40)、かつてに比べて、「男性学においてさえ、労働運動に対する関心が弱まっている」(p.39)と述べたりしたところです。

また、拙稿では引用しませんでしたが、海妻径子氏が、「今は、私は皮肉を込め『電通博報堂的メンズリブ』と呼んでいますが、イクメンプロジェクトやファーザリング・ジャパンの活動がファッショナブルな新ライフスタイルとして宣伝され、企業や女性活躍だとか、政権のお金も流れてスペクタル化しています。(……)日本は、行政メンズリブがこれだけテコ入れしていながら、それに対抗する男性運動が展開できていない」(井上匡子・海妻径子・三浦まり・国広陽子「男性にとっての男女共同参画――フェミニストはどう見るか」『女性展望』692[2018年5-6月]号、p.4)と述べているのも気になるところです。

こうした状況と対峙するためにも、性支配や男性ジェンダーの問題と資本主義の問題とのかかわりは重視しなければいけないと思います。


(1)江原氏は、『わかりたいあなたのためのフェミニズム入門』(JICC出版 1988)や『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房 1991)、『装置としての性支配』(勁草書房 1995)でマルクス主義フェミニズムについて批判的言及をしていますが、それらを見るかぎりでは、そうしたことは述べていないように思います。
(2)ですから、私は拙稿について、「今回、私は、『共感』を出発点にしつつ、『自己利益』の観点を中心に論じた」(拙稿p.40)と言っています。

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これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」の中で取り上げてきた日本の社会や運動についての記事をここに書くようにしました。ご連絡は、tooyama9011あっとまーくyahoo.co.jpにお願いいたします。

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