社会の片隅から

これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。

なぜ森田成也氏は買春の処罰を主張して、主婦を扶養する男性の処罰は主張しないのか?

遠山日出也
この2月に刊行された、小浜正子・板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(京都大学学術出版会)の第3章として、私は「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動――2000年以降、両者の連帯に至るまで」という一文を書いた。

日本のフェミニズムの中でも、セックスワークについては激しい議論が交わされている。そこで既に議論されていることと重なる部分も多いが、以下では、今回の拙文や他の中国の売買春についての研究の中から、私がこの問題について考えたことを記す。

拙文の中では、2001年に李銀河(中国社会科学院研究員)がセックスワークの「非犯罪化」を主張したことを述べている(p.89-90)。その第一の理由は、「セックスワークが犯罪とみなされることは、警察の腐敗(遠山註:警察が取締りの権限を利用してセックスワーカーに金品などを強要するなど)や犯罪組織の介入といった多くのマイナスの結果を招」き「性病防止にも不利である」ことだが、第二の理由は、「売春」と「扶養関係にある婚姻中の男女関係」とは明確には分けられず、妓女、妾、収入のない妻という「三つの状況は、量が異なるだけで、質に違いがない」以上、セックスワークを犯罪だとする理由はない、ということだった。

しばらく以前になるが、菊地夏野氏が「『夜の街』連呼でやり玉に コロナ禍で再燃する『セックスワーク』への差別意識」(文春オンライン2020年8月3日)を発表したのに対し、森田成也氏が「セックスワーカーを差別しているのは誰か――菊地夏野氏への反論――」(『戦争と性』第34号[2021年])を書き、それを加筆修正して、Academiaに掲載した(「セックスワーカー」を差別しているのは誰か)。中国の場合は、売買春とも犯罪として処罰されている点は日本と異なるが、両氏の議論の論点には、李銀河の言う問題とも関係しているものがあるように思う。

女性差別や女性の貧困が背景にあって、金銭と引き換えにセックスを提供してもらうのは、買春だけでなく、男性による主婦の扶養も同じなのでは?

菊地氏は「性サービスを提供する女性が貧困であろうと、またサービスを買う男性が女性差別意識を持っていようと、それを理由にその女性の意志に基づいたセックスワークを否定できるのか? 問題なのは背景の貧困や差別であり、セックスワークの行為自体ではないはずだ」と主張した。それに対して、森田氏は、「買う男性の『女性差別意識』以上に、その行為そのものが女性差別と性的搾取の実践なのである」と主張した。森田氏がそう主張する理由は、「『背景の貧困や差別』に問題があるのなら、まさにその貧困や差別につけ込んで、本当はしたくもない相手と性行為をせざるをえなくしているのだから、それはまさにセクシュアルハラスメントないし性暴力として認識されるべき行為である」というものである。

しかし、だとしたら、男性が収入のない妻(専業主婦)やお妾さんを扶養するという行為はどうなるのだろうか? 女性が主婦や妾になる(ならざるをえない)「背景」には、「女性差別」や女性の「貧困」があることは明らかだろう。男性が主婦や妾を持つことも、森田氏の言い方に従えば、客観的には「まさにその貧困や差別につけ込んで」いる行為だと言える。女性が不特定ではなく特定の男性だけの相手をすれば、妾であり、結婚して家事育児もすれば、主婦になるという違いがあるだけである。

もちろん男性が主婦を扶養することには、それだけではない側面はあるし、主観的には「つけ込んで」いる意識はない人が多いだろう。しかし、それは買春でも同じことである。もし公然と貧困につけ込むような発言をすれば、買春の場合でも岡村隆史氏のように非難されるし、結婚でも、公然とその女性の貧困につけ込んで結婚を求める男は、卑劣な男と見なされるだろう(ドラマだと悪役である)。しかし、現実の問題としても、客観的に言って、年収の高い男性ほど結婚しやすいのである。これは、男性が妻を得ることができる一つの背景には女性差別や貧困があることを示しており、その点は買春と同じだと言えよう。

さらに、森田氏は次のようにも言う。「貧困や差別を利用して相手の性(セクシュアリティ)を利用することが制度として、職業として存在することは、差別と人権侵害を職業にし、社会的制度にしていることであるから、会社や学校の中で部分的に起こる場合よりもいっそう深刻であり、いっそう差別的なはずである」。

しかし、男性が女性の「貧困や差別につけ込んで」主婦を持つことを制度的に支えているのが、ほかならぬ婚姻制度である。なぜなら、婚姻制度においては、夫婦間には扶養義務がある一方で、正当な理由なくセックスを拒否すれば離婚理由になるからだ。これは、多くの場合において、夫の妻に対する扶養と夫に対する妻のセックスの義務とを社会的制度にしたものだと言いうるだろう。もちろん今日では妻も収入を得ている場合が多いが、もし妻の収入が夫の収入より低いにもかかわらず、衣食住を共にし、家計を共にしているとしたら、夫が妻を扶養し、その引き換えに妻が夫にセックスを提供している面があることは否定できない。

森田氏が唱える「新廃止主義」は、売春は処罰しないが、買春と業者を処罰することによって、性産業を廃止するというものである。しかし、上で述べたように、もし森田氏の上記の議論が正しいとしたら、客観的には女性差別や女性の貧困につけ込むことによって、女性を扶養することと引き換えにセックスをしてもらう男性も処罰しなければならない。また、それを社会的制度として支えている婚姻制度も直ちに廃止することを主張しなければおかしいし、それを産業にしているブライダル産業も禁止しなければならない。

もし妻を扶養する夫を処罰するとしたら、どうなるだろうか? たまたまその妻が夫からDVを受けている場合などは、妻の状況が改善される場合がないとは言えない(たとえば夫が妻を離婚したり、妻の経済的自立をサポートしたりせざるをえなくなって)。それは、たまたまセックスワーカーが不当な暴力や拘束を受けている場合ならば、「新廃止主義」によって性産業をまるごと法律で禁止することが、その女性にとっては一定の解放になる場合もあるのと同じことである(*)。しかし、多くの場合、妻を扶養する夫を処罰し、婚姻制度を今すぐ廃止することは、女性が男性と結婚する場合の選択の自由を奪うだけでなく、場合によっては生活の手段(それが弊害を伴うものであるとしても)を奪うことになり、むしろ女性の状況を悪化させる場合が多いだろう。これは、買春や性産業を今すぐ法律の力によって禁止することが、女性の選択の自由や女性が望む生活の手段を奪うことになる場合が多いのと同じことである。

(*)この点は、中華人民共和国建国(1949年)初期に妓院(売春施設)を閉鎖したときも同じだった。もちろんこの時代は、売春女性に対する強制と暴力が今より多かった時代であり、建国以前から妓院にいて人身拘束や虐待・脅迫などの経験があった女性たちは、中国共産党に施設に収容されることによって自分が解放されたと思ったという。しかし、建国後、とくに拘束もされずに売春を始めた女性は、家から売春宿に通っていて、虐待や脅迫もほとんどなかったので、施設に収容されたことに感謝したりはしはなかったという(林紅『中国における買売春根絶政策:一九五〇年代の福州市の実施過程を中心に』明石書店、2007年、p.219-221, 226, 234-235, 254)。

また、業者についても、営業自体を処罰することは良いとは言い難い。艾暁明(当時、中山大学中文系教授)は、2014年、「性の市場化・産業化」について、「個人で街頭に立つよりも、金をゆすり取られたり、巻き上げられたりする危険は少ない」という点では「一定程度、その権益の保護に有利である」と主張した(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。もっとも、この点については、たとえ市場化されていても、日本で言われているように、店舗型の性風俗が規制されて、デリバリーヘルス中心になるとセックスワーカーが危険にさらされることになるが(*)、いずれにしても個人で孤立した形で営業することは、危険性が高いことはたしかである。業者についても、労働法制や労働運動の監視下に置くのがよいだろう。

(*)要友紀子氏は「風営法改正(1999年)によってデリヘル(※デリバリーヘルスの略。客のいるホテルや自宅で性的サービスを提供する風俗)が合法化されメジャー化した一方で、店舗型風俗店の新規出店ができなくなったため、ほとんどのセックスワーカーたちは、客と二人きりのホテルか客の自宅という密室で働かざるを得なくなってしまいました」と語っている(「“法的フレーム、社会的フレームによるセックスワークの「不安全」をなくし、労働環境を良くしていきたい”D×P公開型勉強会レポート」)。

夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応のアンバランスさは、実質的にはセックスワーカーに対する差別にならないか?

以上から見て、森田氏の主張は、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応がきわめてアンバランスだと言える。

森田氏は、新廃止主義は、セックスワーカーの人権を侵害している買春者や業者を処罰するのだから、セックスワーカー差別ではまったくないと主張している。たしかに、昔のように売春女性を処罰するようなやり方と比べれば、そうだと思う。

しかし、中国でも、黄盈盈(中国人民大学副教授)は、「売春を罰せずに、買春を罰する」やり方に対して、「もし私が物を売っているときに、あなたが客を追い払ったら、私の権益を侵害していないか?」と問うている(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。主婦の場合で考えると、たとえ主婦自身は処罰しなくても、主婦を養う夫を処罰したら、それがたとえ罰金刑だとしても、それはかなりの程度、実質的には主婦のいる家庭に対する罰金になり、「主婦差別」になるのではないだろうか? それと同じ意味でも、新廃止主義は、「セックスワーカー差別」だと言いうるのではないだろうか?

森田氏は、自らの議論が「性道徳にもとづく反対論」ではないことを強調している。たしかに一見そう見えるのだが、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と売買春に対する対応のアンバランスさを見ると、森田氏の主張は、婚姻内のセックスであるか否かを評価の基準にしているので、そうした性道徳を前提にすることになっていると思う。

夫による妻の扶養や婚姻制度と売買春との共通性を否定するのは無理ではないか?

私も、女性が夫に扶養されたり売春したりしなければ生きていけない状況は、女性差別や女性の貧困をなくすことを通じて、なくさなければならないと思う。また、婚姻制度もなくさなければならないと思う。ただし、それは、誰もが自立できる、個人単位の賃金と社会保障の制度を構築することや、売春や婚姻から抜け出すことを阻む暴力をなくすことを通じてであろう。ただし、社会から差別や貧困がなくなっても、一時的に扶養・被扶養の関係になったり、そのために私的契約を結んだり、性の金銭的取引をしたりする人はいる可能性は十分あるし、そのためのグループや業者も存在するかもしれないが――こうした点についての未来予想は難しい――べつにそのことを法律で禁止する必要はないように思う。

もちろん男性が、買春について、男女の経済的格差や性規範の二重基準、セックスワーカーの置かれた状況などの観点から考えたり、何らかの行動をしたりすることは有意義だと思う。ただ、買春する男性を処罰することは、発展途上国の劣悪な労働条件の下で製造されたユニクロの製品を買う消費者を処罰するのと同じような無理があると思うのである。

売買春と婚姻制度との類似性や両者の関係については、もちろん日本でもすでに多くの人々が指摘している。ほかならぬ菊地氏が売春女性と主婦の共通性と分断について詳しく論じているし、最近も、青山薫氏、要友紀子氏、岡田実穂氏が触れている。
・菊地夏野「フェミニズムと『売買春』論の再検討: 『自由意志対強制』の神話(PDF)」『京都社会学年報』9号(2001年)、とくにp.141-145。
・青山薫「セックスワーカーの人権・自由・安全――グローバルな連帯は可能か」辻村みよ子編『(ジェンダー社会科学の可能性 第1巻)かけがえのない個から――人権と家族をめぐる法と制度』岩波書店 2011年、p.150-151。
・要友紀子「誰が問いを立てるのか」SWASH編『セックスワーク・スタディーズ』日本評論社、2018年、p.35。
・岡田実穂「合意とは何か」同上、p.185。

それゆえ、この点は、すでに学界でも議論になっているようだ。たとえば、新廃止主義の立場に立つ中里見博氏によると、2018年のジェンダー法学会16回学術大会で、同氏に対して、「性売買に関する不平等説=新廃止主義の議論は、性関係の典型的な契約である婚姻についても類推され、婚姻制度廃止論へつながるか」という質問が出されたのに対して、同氏は、「性売買廃止の議論が直接あらゆる婚姻制度廃止につながるとは考えていない。なぜなら、性売買は一時的な性関係を基礎にしているのに対して、婚姻は『性の絆』であると同時に、相互的な『ケアの絆』としての可能性を持っているからである。ただし家父長主義の強い婚姻制度が否定されるだけでなく、現在の婚姻制度に種々の改革が不可欠だと考えると回答した」とのことである(中里見博「コメントおよびフロアとの討論」『ジェンダーと法』16[2019年]p.65)。

たしかに、性売買と婚姻制度との間には異質性も存在しているだろう。しかし、第一に、中里見氏の回答も、その共通性自体を否定できているわけではない。とすれば、「買春は処罰するが、主婦を扶養することは無罪放免」というような対極的な措置までは正当化できないのではないか。第二に、一時的な性関係ならば深刻な問題にならなくても、同居し続けているからこそ深刻になる継続的な暴力・虐待のような問題もあるのだから、一概に婚姻関係のほうが問題が少ないとも言い難いのではないか。第三に、たしかに中里見氏が言うように、婚姻の中にも「相互的な『ケアの絆』としての可能性」は孕まれているだろうが、その可能性が現実のものとなるのは、賃金や社会保障の個人単位化や社会的サービスの充実などによって、誰もが経済的・社会的に、かつ生活の面でも自立できる条件が保障され、男女が対等な関係になったときであろうし、そのときには婚姻制度は不要になるのではないか。

森田氏は他にもさまざまな論点を出しており、私が不勉強なために、判断できない点もあるが、以上の点については、私はこのように考える。

なお、拙稿は、中国でのセックスワーカー運動のことや、セックスワーク論に批判的な中国の人々の見解なども掲載しているので、よろしければご参照ください。

「草食系男子」とジェンダー平等――森岡正博さんに対する前川直哉さんの批判について

遠山日出也

目次
はじめに
1 前川さんの主張の要旨
2 森岡さんが言う「内発的な動機」「『男らしさ』からの脱却」とは?
 2-1 「内発的な動機」=「いわば利己的な動機」か? 一要因としての「男女平等思想」
 2-2 「『男らしさ』からの脱却」の具体的内容は? 女性を縛る「女らしさ」や性別役割とは無関係か?
3 草食系男子の恋愛全体のジェンダー平等/差別性を検討する必要
4 森岡さんが指摘する草食系男子の特徴から
5 森岡さんによる草食系男子へのインタビューから
 5-1 コミュニケーションにおける性別役割
 5-2 労働における性別役割分業
  5-2-1 全体的には、性別分業に対して柔軟な傾向
  5-2-2 子どもが小さいうちは妻が家庭にいることを望む意見について
6 草食系男子は、ジェンダー平等への第一歩はすでに踏み出している
7 「男らしさ」に乗らないことは必ずしも「生きやすい」「利己的な」選択ではない――彼らを応援した森岡さんの著書の意義
8 森岡さんが言う「草食系男子」の増加は立証されていない――この点で「フェミニズムの勝利」か疑問が残る
9 「美味しいとこ取り」をどう考えるか
 9-1 森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」について、定義や考察の対象が少し異なるのでは?
 9-2 「美味しいとこ取り」とそれに対する対応についての私なりの考察
10 草食系男子にどう訴えるか
 10-1 歴史を踏まえた訴え
 10-2 とくに草食系男子に焦点を当てた訴え
 10-3 とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴え
おわりに

はじめに

前川直哉さんが、先月、「『草食系男子』は、どうすればジェンダー平等への一歩を踏み出せるか 〈男らしさからの脱却〉論を超えて」(『現代ビジネス』2020年1月16日)を発表なさいました。前川さんは、森岡正博さんの「草食系男子」論を参考にしつつも、それを批判しています。

前川さんの一文は、男性が自らの性別役割から脱却することや男性自身の解放とジェンダー平等との関係についての考察にもなっています。私もこのテーマについては強い関心を持っています(注1)。前川さんは、両者の間に区別と関連の両方があることを述べています。この点も、私は、前川さんと同じ考えです。

しかし、私は、前川さんも依拠している森岡さんの草食系男子に関する調査や考察の到達点を踏まえるかぎり、前川さんがおっしゃるより、両者の間に強い関連があると考えます。本稿ではそうした点について論じていきます。

1 前川さんの主張の要旨

まず、以下で、前川さんの主張の要旨を紹介させていただきます。

森岡正博さんは、草食系男子は「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護するという意味での『男らしさ』を窮屈に感じ、その呪縛から自分で降りようとしている男性たちである」、「女性たちに糾弾されたからそうするというのではなく、自分たちの内発的な動機によってそうする」であり、彼らの登場は「フェミニズムの勝利だと捉えてよい」と述べている。

たしかに草食系男子の中には、女性の困難を含めたジェンダーの問題と向き合う声もあるが、その一方で、「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と言う人もおり、彼らは必ずしも性別役割分業観から自由というわけではない。

私(=前川さん)は、草食系男子が「内発的な動機によって」自らのジェンダー規範から降りる点にこそ問題があると考えている。男性が自身を縛る「男らしさ」の呪縛を窮屈に感じ、そこから逃れようとすることと、女性に「女らしさ」や「ケア役割」を求め続けることは、「自身の生きやすさの追求」という内発的動機において両立できてしまう。もしそういう「美味しいとこどり」をする男性が増えたのなら、「フェミニズムの勝利」と呼ぶことはできない。

よく似た構造は、「男はつらいよ型男性学」がはらむ問題点にも見られる。この点については、江原由美子さんが指摘している危惧を、私も以下のように共有している。

男性が、自らに課せられた性別役割やジェンダー規範からの脱却を求めるだけではなく、女性に課せられた性別役割やジェンダー規範を変えようとしない限り、ジェンダー平等という社会的公正に資することにはならない。

男性たちが自身の心地よさだけを追求すると、自身が男性として享受している特権を温存しようという動きに繋がりかねない。彼らにとって、フェミニズムの主張は、自分たちの安寧を脅かすので、バッシングの対象となってしまう。「男らしさも恋愛も面倒」という、いわば利己的な理由だけで「草食化」した男性たちは、ジェンダー平等に資する存在とは言えない。

とはいえ、草食系男子は、ジェンダー平等で公正な社会の実現に貢献する可能性を秘めている。森岡さんは草食系男子の特徴の一つとして「女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる」ことを挙げている。この点は、ジェンダー平等という観点から見たとき、今の日本社会において全ての男性に求められている。また、「男らしさ」に違和感を抱いた男性が、「女らしさ」による女性の生きづらさに気づくケースも多いだろう。

人権や平等といった近代の概念は、少しずつその対象範囲を広げてきた。制限選挙で選挙権を有していた特権層が、自分の一票の重みが減るのを承知で男子普通選挙導入を訴える政党に票を投じ男子普選を実現させたように、自身の特権が多少減じてでも「公正な社会」を選んできた歴史は無数にある。私たちもその恩恵を得ているのだから、より平等で公正な社会を目指す動きに待ったをかけるのは、虫が良すぎる。

社会的公正と自身の生きやすさの追求は、決して矛盾するものではなく、両立できる。女性が生きづらさを訴える声に耳を傾け、この社会がよりジェンダーに縛られない、公正なものとなるよう身近なことから変えていこう。


前川さんの主張は、だいたい以上のようなものです。

私も、前川さんが述べておられる主張のうち、以下の点には意義があるし、賛同できると考えています。
・男性が、自らに課せられた性別役割やジェンダー規範からの脱却することと、女性に課せられたそれらを変えることとは別の問題である面を指摘していること。
・草食系男子がジェンダー平等社会の実現に貢献できる面を指摘していること。
・「美味しいとこどり」の問題を提起したこと。
・特権層が自身の特権が減じてでも「公正な社会」を選んできた歴史があること。社会的公正と自身の生きやすさの追求は矛盾するものではなく、両立できること。

私が前川さんに同意できないのは、前川さんが以下のような論理を展開している点です。:草食系男子が「男らしさ」の呪縛から逃れるのは彼らの「内発的な動機」によるものである点に問題がある。それは自らの「生きやすさ」の追求という「いわば利己的な理由」であり、性別役割(分業)や女性の生きづらさとの解消とは別問題なので、彼らの登場はジェンダー平等に資するものではなく、「フェミニズムの勝利」(森岡)とは言えない。むしろ、彼らにとって、フェミニズムの主張は、自分たちの安寧を脅かすものとしてバッシングの対象となりかねない。

前川さんも述べているように「草食系男子」の定義は人によってさまざまですし、実態に対する認識も人によって異なりますが、前川さんは下のa~cの森岡さんの著作に依拠して論じておられるので、ここでは、私も同じ森岡さんの著作にもとづいて考えてみます。

a.森岡正博『草食系男子の恋愛学』(メディアファクトリー 2008)
b.森岡正博『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(マガジンハウス 2009)
c.森岡正博「『草食系男子』の現象学的考察(PDF)」The Review of Life Studies 1(2011)

以下、森岡さんの著作からの引用は、上記の各文献に付けたa、b、cの記号とページ数を記します。

なお、以下では、できるだけ丁寧に議論をしたために、長文になっていることをお詫びします。前川さんご本人もとっくにお気づきの点を述べている個所もあると思いますが、その点もご了承ください。

2.森岡さんが言う「内発的な動機」「『男らしさ』からの脱却」とは?

前川さんの一文では、「内発的な動機」と「『男らしさ』からの脱却」という概念が重要な位置を占めています。まず、私は、それらの意味を正確に捉える必要があると思います。

2-1 「内発的動機」=「いわば利己的な動機」か? 一要因としての「男女平等思想」

心理学では、一般的に、「外発的動機づけ」が「叱責、罰、報酬、強制」などの外的な要因によって引き起こされるものであるに対し、「内発的動機づけ」とは、好奇心や知的関心にもとづくなど、「賞罰には依存しない」ものだと言われます(注2)。

森岡さんの場合も、草食系男子が「男らしさ」から降りる「内発的な動機」について、「女性たちに糾弾されたからではなく~」という説明を付しています。「糾弾」という語は若干戯画的ですが、「叱責や罰によるものではない」という程度の意味でしょうから、上の一般的意味における「内発的/外発的動機」の分類に沿ったものと言えます。

そうである以上、「内発的な動機」は、必ずしも自身の「生きやすさ」の追求という「いわば利己的な理由」によるものとは限りません。なぜなら、とくに外部からの賞罰や強制がなくとも、「他人のため」や「(自分のためだけでなく)みんなのため」に行動する人はたくさんいるからです。前川さんも、きっとその中のお一人だと思います。

前川さん自身が最後で呼びかけている内容も、なにも「男性の自発的動きに期待しても無駄だから、女性たちが法律や制度の力で性差別を規制することによって男性の行動を変えよう」ということ(もちろんそれも大事ですが)ではなく、男性に対して人権の歴史を説くことによって、彼らの内発的動機を喚起するものにほかなりません。

もっとも、たしかに森岡さんは、男性が「男らしさ」を脱却することについて、「『男らしさ』を窮屈に感じ~」という説明をしている個所もあり[c:28]、少なくともその面に関しては、自らの「生きやすさ」の追求という動機があると言えます。

しかし、第一の問題は、動機が果たしてそれだけなのか、ということです。

私などが改めて言うまでもなく、「内発的な動機」は、社会のあり方と無関係なものでも、超歴史的に存在しているものでもなく、特定の歴史的社会的条件の下で生じた「内発」性です。

その点に関して、森岡さんは、草食系男子の増加の背景について、「戦争に関与しない平和な社会」[b:55]が長く続いたこととともに、「草食系男子は、恋愛における男女平等を好みますから、男女平等思想が日本に根付いたことは、きっと関係していると思われます」[b:58]と述べています(注3)。その関連性を示すデータは提示できていないとはいえ、まず、その点から言っても、彼らの行動は「いわば利己的な理由」だけによるものではないと、少なくとも森岡さんは理解しています。

草食系男子誕生の背景の一つに「男女平等思想」があるとしたら、その「『男らしさ』からの脱却」は、男性自身の「生きやすさ」を追求するためだけのものだとは言えません。むしろ「『男らしさ』からの脱却」とも「男女平等思想」は関係があるのではないか、という疑いも生じます。

この点は、森岡さんが把握した草食系男子の「『男らしさ』からの脱却」が、どのようなものかとも関わるので、後の2-245でさらに考えたいと思います。

第二に、上の点とも関連しますが、男性が自分の「生きやすさ」を追求することと果たしてジェンダー平等とは無関係なのかという問題があります(前川さんも、両立することは指摘しています)。

後述のように、私は、男性が自らの「生きやすさ」の追求を大きな社会的規模でおこなおうとすればするほど、それは、自らの「特権」を放棄することを含めたジェンダー平等社会の実現なしには不可能になると考えています。草食系男子がそれをめざしているわけではないのですが、この点についても後で触れます。

2-2 「『男らしさ』からの脱却」の具体的内容は? 女性を縛る「女らしさ」や性別役割とは無関係か?

私は、「男らしさ」が、何らかの意味で「女らしさ」との対比で語られる概念である以上、論理的に言えば、そこからの「脱却」は、方向性としては、何らかの意味と程度において、「男らしさ/女らしさ」の区分を解消する方向性を持った変化たらざるをえないと思います。

もちろん、「『男らしさ』からの脱却」と言われるすべての行為が、「男らしさ/女らしさ」という区分の解消まで展望しているわけでは、まったくありません。「『男らしさ』からの脱却」の中にも、さまざまな程度や形態の「脱却」があります。また、自分では「男らしさ」から脱却したつもりが、実は「男らしさ」の形態が変わっただけ、という場合もあるでしょう。

しかし、だとしても、まず、どういう意味で森岡さんが「男らしさ(からの脱却)」を言っているかを見る必要があるのではないでしょうか?

まず、森岡さん自身による「男らしさ」の説明は、前川さんの引用にもあるとおり、「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護する」[c:26]というものです。だとすれば、それに対応する「女らしさ」として、「男性に従属し保護される」ことがあると想定されるので、「女らしさ」や性別分業とは無関係とは言えません。

以下で、もう少し具体的に見ていきます。

3 草食系男子の恋愛自体のジェンダー平等/差別性を検討する必要

たしかに森岡さんは、草食系男子の登場は「フェミニズムの勝利」[c:26]だと言っています。しかし、続けて森岡さんが言っているように、草食系男子が登場しただけでは「もちろん(……)社会のジェンダー構造や規範そのものがただちに解体されるわけでは」ありません。

森岡さんの文章は、男女間の恋愛のあり方を論じたものであり、また、「男子」という言葉や「草食・肉食」という言葉からわかるように、とくに若い世代の恋愛を中心にした考察になっています。

とすれば、まず、森岡さんが調査・考察した恋愛のあり方自体について、トータルに、ジェンダー平等の観点から検討する必要があります。恋愛においても、女性に対する差別や抑圧、性別役割は生じてきたのですから、そのあり方自体が、ジェンダー平等の重要な一部でしょう。

その点を、以下の45で見ていきます。

4 森岡さんが指摘した「草食系男子」の特徴から

まず、森岡さんが挙げている「草食系男子」の5つの特徴[b:17-18]を見てみましょう。森岡さんは、草食系男子を「肉食系男子」との対比で語っていますので、カッコ内の「⇔」の後に、肉食系男子の特徴も付記しました。

(1)優しい心を持っている(⇔ハードな心を持っている)
(2)「男はこうあるべきだ」という男らしさに縛られていない(⇔「男はこうあるべきだ」という男らしさを肯定している)
(3)女性に対して、性的にガツガツしない(⇔女性に対して、性的に積極的に行動する)
(4)女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる(⇔女性をまず女として見る、性的に惹かれないときのみ、ひとりの人間として見る)
(5)傷つくこと、傷つけることが苦手(⇔傷つくこと、傷つけることを通して人間は強くなるものと考える)

この5つの特徴は、いずれも、大まかに言えば、「男/女のジェンダー」を乗り越える要素を持っています。まず、(1)は、女性の特質とされている「優しさ」を男性も持つという面があります。森岡さんの説明[b:18-21]によると、それは、「弱い立場の人の身になって考え(……)るなど、やわらかい心の働き」で、「つねに対話をして、お互いの気持ちを確かめ合」いたいと思うことです。これは、通常女性に求められることか、男女を対等な関係として理解した場合の行動でしょう。(2)の「男らしさ」は、「戦うことができ、頼もしく、力強く、女性をぐいぐいと引っ張っていき、弱い女性を守ろうとするような態度」と説明されているので、「男が女を引っ張る」ことに囚われないということです。(3)は、男性と女性を、性的能動性/受動性で区分することを否定する要素を持っています。さらに、(4)は、性的に惹かれるか否かにかかわらず、女性をひとりの人間として見ることであり、女性を、男/女の区分だけに囚われずに見る見方です。また、(5)のような繊細さは、一般には女性の特質とされていると思いますが、それを男性も持つことです。

すなわち、まず、非常に大づかみな捉え方になりますが、森岡さんが挙げる「草食系男子」の基本的特徴からは、彼らは、大きな方向としては、ジェンダー平等に向けて前進していると理解できるように思います。

また、この5つの特徴とそれぞれの説明からは、それぞれが相互に関連していることも見えてきます。すなわち、「優しい心を持っている」から、「女性をぐいぐいと引っ張ってい」くといった「男らしさ」にとらわれず、「女性をひとりの人間」として視るので、「性的にガツガツ」して、女性を「傷つけ」ないよう行動する、というふうに、ごく自然に5つの特徴はつながります。

だとすると、(2)の「男らしさ」から降りることも、ジェンダー平等的要素を持った他の4つの特徴と結びついたものだと言えますから、こうした文脈的に見ても、ジェンダー平等的な要素を持ったものとして捉えられます。

また、いずれも、男性が自分の「生きやすさ」を追求しているという理由だけから生じた特徴だと言える根拠はなく、「男女平等思想」の影響もあると見たほうが自然である(少なくとも、男女平等思想によって強化される特徴である)ように思います。

5 森岡さんによる草食系男子へのインタビューから

次に、より具体的に、森岡さんがインタビューした草食系男子の実例を検討してみましょう。以下では、森岡さんが取材した「ファイル1」から「ファイル4」[b:62-143]に収められた男性を、順に、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんと記すことにします。

5-1 コミュニケーションにおける性別役割

森岡さんのインタビューからは、草食系男子のコミュニケーションには、以下のような(a)~(e)のような特徴があるとまとめられるように思います。

(a) 男性が女性をリードするという役割に囚われず、セックスするか否かやデートの内容について2人で話し合って決める。人によっては、むしろ女性にリードされることを求める。

・Aさん:「男性側には暗黙のうちにリードすることが求められ」たり、「AVのように一方的に欲望を押しつけ」たりすることは、「無理!」。それは、「自分も傷つきそうで、相手も傷つけてしまいそう」だから[b:67-68]。
・Bさん:「素の僕はリーダーシップを発揮するタイプではない。恋愛の場でもそれを求められてもそこまでも頼りがいはないよと。」[b:97]
・Cさん:「僕は年上の女性がいいんですね」「年上がいいのは、引っ張ってもらいたいから」[b:104-105]
・Dさん:彼女が部屋に呼んでくれたら、「[セックスを]したいって伝えるとは思いますけれども」、「積極的に迫」ったり、「襲ったり」はしない。「僕も草食系だから分かるんですが、草食系の男って、どうしても『相手が嫌がったらどうしよう』と考えちゃう」[b:127-128]。「なんでもそうですけど、男側だけじゃなく、女性にも言いたいことを言ってもらって、お互い意思疎通するのが大切かなって思います」[b:131]。


すなわち、森岡さんがインタビューした草食系男子は、「男性は女性をリードし、女性は男性にリードされる」という性別役割に従っていません。こうした性別役割は、同意なきセックス=性暴力やDVの温床になるものです。また、女性のほうが男性より年齢などが低くなければならないといった抑圧の温床にもなります。

(b) 男性もちゃんと相手(女性)の話を聞く。つまり、男性も、女性と同様のコミュニケーションの仕方になる。この点は、(a)とも関係があります。

・Aさん:「僕が女性同士の会話を聞いて好ましいと思うのは、自分の人生設計や、恋愛の悩みを、本音を交えて、きちんと意見交換し合う点ですね。男同士の話って、ネタにネタをかぶせるようなところがあって実がないことになりがち。だから、僕も女性と地に足が付いた話ができるのは、発見も多くて楽しい。」[b:82]。
・Bさん:「基本的には女性の話を聞くのは好きなので、彼女が話したいことを話してもらえば楽しい」[b:98]
・Cさん:「僕は知的な会話ができる女性がタイプ」「僕が知らないことをいろいろ知っていて教えてもらえるのも刺激的。」[b:107]


すなわち、彼らは、「男性が話をし、女性は聞き役になる」という性別役割には従っていません。この性別役割は、女性のケア役割、男性のマンスプレイニングにしばしば結びつくものであり、性差別的なものと地続きだと思います。

(c) 女性とも、友だちどうしの関係になれる。この点は(b)とも関係があります。

・Bさん:「女性と友達になるまでの敷居は低いんですよ。女性と1対1でお茶したりするのも緊張しません」[b:98]、「人と暮らすのは苦ではないんです。いまも、女友達とルームシェアしています。(……)彼女には別に恋人がいますから、僕と恋愛に発展することもないですね。」[b:100]
・Cさん:「好みの女性と付き合いたいというより、まずは友達として親しくなりたい」[b:108]


この点は、先述の(4)の「女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる」という特徴と関わります。この特徴が、とくに「女性の困難に気づき、社会を変えていくための大切な第一歩」(前川さん)と言えるかはわかりませんが、たしかにジェンダー平等にプラスになるでしょう。

(d)女性に積極的にアプローチすることによってモテたいという気持ちは少ない。

・Aさん:「男性文化に違和感」があった。たとえば飲み会の席では、男ばかりだと定番の猥談が飛び出すが、それは「何人とセックスした経験があるとか、つきあった彼女とヤッてどれくらい良かったとか」という、自分がどれだけもてたかの「武勇伝」だ。「でも僕自身はもてたいと自然に思うことができない」「もてるためには、女性に積極的にアプローチしなければならないのでしょうが、それは僕にとってはハードルが高い」[b:65]

男性が女性を追い求めるべきだという規範も、「男は能動的・女は受動的」という性別役割の一部であるだけでなく、ストーカー的な行為と地続きだったり、女性からのアプローチに否定的だったりするという意味で性差別的です。

(e)恋愛に熱が上がらない、一人が気楽でいい。

・Bさん:「恋愛に対して熱が上がらないんです」[b:96]、「低め安定の恋愛がいちばん心地いい」[b:97]
・Cさん:「恋人はいまはいません。ひとりが気楽でいいかなという気持ちがまだ強いのかなあ」[b:103]、「恋人がいるのもステキだけど、どこへ行きたいとか何時に会うとか予定をすり合わせなきゃいけない。それがちょっと面倒というか。ひとりだったら、勝手にできますからね。[b:109]


こうした志向は、直接には女性と関係ありませんが、カップル単位に対する冷めた感情ですから、間接的には性差別解消にとってプラスの要素があります。

以上の(a)~(e)の点において、草食系男子や彼らの「『男らしさ』からの脱却」は、性別役割における女性の従属性・被抑圧性の解消やジェンダーにおける男女二分法の克服に向けて前進していると言えます。

こうした草食系男子が誕生する背景として、「男らしさ」の呪縛の窮屈さだけでなく、(a)~(d)の点については男女平等意識もあると想定することも、ごく自然なように思います。

とくに彼らが感じている「『男らしさ』の窮屈さ」や「生きづらさ」に焦点を当てるとしても(注4)、その点が言葉としてうかがえるのは、「暗黙のうちにリードすることを求められる」[b:67]、「[男は]もてるためには、女性に積極的にアプローチしなければならない」[b:65]という文の下線部あたりでしょう。男性が女性を「リード」しなければならないことへの抵抗は、他にも語られています[b:97,105]。

ほかに、「自分も傷つきそうで、相手も傷つけてしまいそう」だから「無理」[b:67]とか、「どうしても『相手が嫌がったらどうしよう』と考えちゃう」(下線部は遠山)[b:128]とか、「男同士の話って、ネタにネタをかぶせるようなところがあって実のないことになりがち」[b:82]というあたりにも、彼らの抵抗感が読み取れます。

しかし、これらは、上で見たように(a)(b)(d)の文脈で言われていることであり、彼らが抵抗を感じている「男らしさ」の規範は、女性には男性以上のしんどさを生じかねないことです。ですから、これらの点については、彼らが「男らしさ」から脱却し「生きやすさ」を求めることは、女性の「生きづらさ」の解消にもつながることだと思います。

5-2 労働における性別役割分業

前川さんが、「男らしさ」からの脱却と「女らしさ」や性別役割の問題とどう向き合うかとは別問題だ、と述べる根拠は、「草食系男子」の女性観・家族観の内容は様々だが、自分が望む結婚の形として「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と答えるような人もいたという理由によるものです。

5-2-1 全体的には、性別分業に対して柔軟な傾向

たしかにおっしゃるように「様々」なのですが、私は、前川さんが肯定的に引用しているAさんだけでなく、他の男性も、家事分担には比較的積極的姿勢を見せている点にも注目しました。

・Bさん:「家事はとくに割り振っていないんです、適当に分担し合ってやっていますが」[b:100]
・Cさん:「会社に弁当持参で行く」[b:102]、「もし結婚しても、妻には仕事を続けてもらいたいので、家事は分担しますよ。(……)家庭を切り盛りしてもらいたいとか、女性的な役割を押しつける気はありません。極論すれば、彼女がすごいキャリア志向なら、僕が仕事を辞めて主夫をしてもいいかな」[b:108]

・「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と言ったのはDさんですが、彼さえも「学生のとき、ずっと自炊していたので、最低限は作れますよ」「料理は料理教室に通いたいぐらい好きです。」、(結婚したら料理を)「一緒にできたらいいなって思います」「一緒に作ったりしたいですね」[b:122] と言っています。

事例の数が少なすぎるとはいえ、こうした家事に関する姿勢は、「草食系男子」の他の特徴とつながっているので、必ずしも偶然ではないように思います。Bさんは、家事分担について、「いまも、女友達とルームシェアして」して、将来は「同居人感覚の結婚もありかな」[b:100]という文脈の中で語っています。Cさんの場合は、「年上の女性がいい」とか「引っ張っていってもらいたい」[b:104] という希望とつながっています。

彼らの現実の共同生活の中では、こうした姿勢が貫かれ(てい)ない可能性はありますが、平均的男性に比べれば、柔軟な姿勢を持っているように思います。

5-2-2 子どもが小さいうちは妻が家庭にいることを望む意見について

Dさんは、以下のような発言を見ると、他の面でも、他の3人より保守的な点があります(質問事項が異なるので、厳密な比較はできませんが)。

・相手の女性に求めるものは、「こっちの心とか、立場とかに対する(……)思いやり」[b:115]
・「プロポーズは自分からしたい」、「ふだんはグダグダでも、節目はきちんとしたいなと思うので」[b:118]
・結婚に一番求めていることは、「落ち着く場所というか自分の居場所というか帰る場所がある」こと[b:119]。


Dさんについて、どう考えたらいいのでしょうか?

第一に、こうした保守性は、Dさんのプロポーズについての発言にみられるように、「男性が女性をリードし、女性は男性にリードされる」関係、そうした意味での「『男らしさ』からの脱却」が不十分であることと関係があるのではないか、ということです。

第二に、そうは言っても、すでに触れたように、Dさんも、女性に嫌がられることはせず、お互いの意思疎通を重視するという点などでは「草食系男子」の特徴を持っています。こうした特徴は、もし女性が出産後に仕事を辞めることやケア役割を嫌がったら、それと矛盾する可能性があります。この矛盾は、Dさんと女性が話し合う過程で、Dさんが考えを改めることによって解決する可能性もありますし、逆に、Dさんが女性の意思を押さえつけることによって問題を「解決」して、Dさんが草食系男子ではなくなる可能性もあると思います。

以上の2つの意味で、Dさんの事例も、「男らしさ」からの脱却と女性に女性役割を求めることからの脱却とは関係があることを示しているのではないか? 前者だけから脱却して、後者から脱却しないことは、矛盾をきたすのではないか? と考えます。

6 草食系男子は、ジェンダー平等への第一歩はすでに踏み出している

以上の245の点から見て、草食系男子は、「ジェンダー平等への一歩」はすでに踏み出していると言えます。

すなわち、森岡さんの「男らしさ」の定義や「草食系男子」の特徴づけ(その背景としての「男女平等思想」を含めて)、「草食系男子」へのインタビューから見るかぎり、森岡さんの言う「男らしさ」から降りることは、ジェンダー平等への前進であり、女性の抑圧解消にもプラスになるものだと言えます。

また、「男らしさ」一般でなく、「『男らしさ』の呪縛の窮屈さ」から脱却する(その意味で「生きやすさ」を求めること)という点に絞って考えても、5-1で述べたとおり、それ自体が女性にとっての抑圧解消にプラスだと思われます。

ですから、森岡さんの言う「草食系男子」には、「ジェンダー平等を訴えるフェミニズムの主張を、自分たちの安寧を脅かす目障りな存在として、バッシングの対象」にする人は、少なくとも平均的男性に比べれば、少ないと考えられます。

もちろん、フェミニズムについてよく理解している人は、草食系男子の中でもごく一部でしょうから、バッシングをする人が全くいないわけではないでしょう。

しかし、たとえば、彼女が自分の部屋に来たからといって、襲ったりせずに、「したい」と口に出して合意を求める人は、セックスにおける「合意」を説くフェミニズムに反発を覚えることは少ないでしょう。むしろ世間の一部の常識に抗して自らの女性とのつきあい方を正当化してくれるものとして、フェミニズムを歓迎する場合もあるのではないでしょうか。

江原由美子さんの言う「男はつらいよ型男性学」についても、森岡さんの言う「草食系男子」と同様のことが言えます。すなわち、私が「江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題提起を」(拙ブログ「社会の片隅から」2019年10月2日)で述べたように、江原さんの言う「男はつらいよ型男性学」は、女性差別をテーマとはしておらず、ジェンダー平等に結びつく上では大きな課題を残しているとはいえ、フェミニズムとは親和的なものであり、ジェンダー平等とは真逆の方向の動きと呼応してしまいがちだということはない、と考えます。

7 「男らしさ」に乗らないことは必ずしも「生きやすい」「利己的な」選択ではない――彼らを応援した森岡さんの著書の意義

もう一つ述べておきたいのは、「男らしさ」から降りる(乗らない)こと自体、必ずしも「生きやすい」、「利己的な」選択ではないということです。

第一に、草食系男子は、「肉食系男子」のように、単純に女性を追い求めて言うことを聞かせればいいのではなく、女性との間に合意を作っていく必要があるからです。「民主主義とはめんどうくさいものなんだ」ということは、この問題にも当てはまります。

実際、Aさんは、女性と親密な関係になるのも「短期間では難しいと思います。何かを決めなくてはいけない場面を二人で何度も共有して、そのつど問題をクリア」[b:79]することが必要だと語っています。Aさんは、「合意して決めるべきところと、自分で決断すべきところを線引きするのは、いまでも難しい」[b:77]とも言います。

第二には、草食系男子の恋愛のしかたは、社会の主流の恋愛規範と抵触しているので、そのために起きる困難があります。

一つは、社会からの視線です。森岡さんは、草食系男性は「自分たちが草食系であることを肯定していることが多いが、同時に、社会からは侮蔑の目で見られることがあるのを知っており、そのことを悩んでいる者もいる。マスメディアやインターネットの言論においては、草食系男子に対する男性からの批判の言葉が多く聞かれる」と指摘しています[c:25]。

もう一つは、社会で主流の恋愛のあり方との矛盾による、女性との恋愛の上で生じる困難です。

そうした彼らの恋愛を応援するために、森岡氏は『草食系男子の恋愛学』(メディアファクトリー 2008)を書き、彼らと出会いたい女性のために『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(マガジンハウス 2009)を書きました。

8 森岡さんが言う「草食系男子」の増加は立証されていない――この点で「フェミニズムの勝利」か疑問が残る

ただし、私も、草食系男子の登場を、森岡さんが「フェミニズムの勝利だ」と評していることに対しては、別の理由から疑問を持っています。

その理由は、「草食系男子」が増えている根拠が明確でないことです。森岡さん自身、草食系男子が増加したと述べている新聞や雑誌の記事には、多くの場合「それを裏付ける資料は掲載されてい」ないと指摘しています。森岡さん本人も、データとしては、20代男性の殺人件数の減少という極めて間接的なデータしか挙げていません[b:54-57]。

森岡さんの場合は、「草食系男子」をより独自に特徴づけていますが、そうした男性が増えたかについては、なおさらはっきりしません。

久真八志(くまやつし)@okirakunakumaさんは、twitterで、森岡さんの本は、そういう男性が本当に近年増えたのか論じるところにはほとんど焦点がない。フェミニズムの影響云々は、森岡さんがフェミニズムの影響下で考えたことを投影したような混線した印象があるという趣旨のことを指摘しています(2020年1月16日午後2:33)。

もっとも、「草食系男子」という言葉を作った深澤真紀さんが挙げる彼らの特徴も、セックスにガツガツしない、「雑魚寝」をしても手を出してこない、女子のことも「人間」として見ていて、男女の間でも友情が成り立つ、といったことなので、森岡さんの定義とある程度、似ています(注5)。そうした「草食系男子」が広く話題になったことは、男性の行動の何らかの変化を示している可能性が高いでしょう。

ただ、森岡さんの「草食系男子」論はフェミニズムとの関係を重視しているので、「男性が女性を追い求めリードする」という規範が変化したか否かが、重要だと思います。

その点について、田中俊之氏は、2015年段階においても、若い男性について「むしろ、注目しなければならないのは、何が変わっていないか」であり、「ほとんどの若者は告白やプロポーズといった重要な決断は男性からするべきと考えて」いるなど、「『男がリードする側/女はリードされる側』という図式がまったく崩れていない」ことを強調しています(『男がつらいよ』KADOKAWA 2015、p.149、209-210)。

こうした点を含めて、若い男性の変化をどうとらえるかは、まだ十分研究されていないのではないかと思います。

9 「美味しいとこ取り」をどう考えるか

森岡さんの言う「草食系男子」やその「男らしさ」からの脱却は、ジェンダー平等に向けて前進したものであることについては、7で述べたとおりです。

ただし、私も、前川さんが「美味しいとこどり」の問題を提起したことは意義があると思います。

前川さんは、「美味しいとこどり」を、「自身は男性役割や男らしさの規範から逃れながら、女性には相変わらずこれまで通りのジェンダー規範を求める」ことと説明しています。

前川さんも引用してる先述のAさんが、「自分の感じている違和感が、男に対して無条件に期待される『男らしさ』によるものだと分かってくると、今度は『女らしさ」によるしんどさが女性にあることにも気づきました」と述べていること自体、「男らしさ」による抑圧への気づきと「女らしさ」によるそれとが、相対的には区別できることを示しています。

9-1 森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」についての定義や考察の対象が少し異なるのでは?

私は、前川さんの「『男らしさ』(の束縛)からの脱却」の定義には、森岡さんとは異なる面があると思います。森岡さんは、草食系男子の中に「男女平等思想」があると認識していて、実際、森岡さんがインタビューした彼らの「男らしさ」に対する抵抗感の中には、「男女平等思想」によるものも含まれているように思います。それに対して、前川さんは、「『男らしさ』からの脱却」を、森岡さんと異なり、「生きやすさ」「心地よさ」にストレートにもとづいたものとして理解しており(実際、先述の久真八志さんは、前川さんの「『男らしさも恋愛も面倒』という、いわば利己的な理由だけで『草食化』した男性たち」という記述について、「ここにまた新しい(そして実在も疑わしい)草食系男子の定義が生まれてしまった」と述べています)、草食系男子の中の男女平等意識については、あくまでジェンダー平等社会に貢献する「可能性」レベルのものと理解しています。

その点と関連しますが、森岡さんは、主に恋愛中の男女のコミュニケーションや同意の問題に焦点を当てています。それに対して、前川さんは、労働における性別分業に注目しています。この点について、私は、男女のコミュニケーションや同意の問題については、男性役割と女性役割が表裏一体となっている面が大きく、「男らしさ」からの脱却がストレートに女性に対する抑圧の解消につながる(ただし、そのぶん男性側に男女平等意識が要求される)面が大きいと思います。それに対して、労働の問題は、男性の長時間労働・過労死や、競争原理に駆り立てられるといった問題は、女性の被差別状況や家事負担の問題とは、根底的には関連しているとはいえ、それほど表裏一体ではありません。

このように森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」の定義や考察の対象が少し異なるように思います。前川さんの問題意識にきちんと応えるためには、森岡さんの調査・研究とはまた別のものが必要されるのではないでしょうか。

9-2 「美味しいとこ取り」とそれに対する対応についての私なりの考察

以下では、とりあえず今の時点で、私なりに、「美味しいとこ取り」の問題について、考えたことを述べてみます。その際には、できるだけ森岡さんの調査や考察を素材にしてみました。

私は、「美味しいとこ取り」の中には、以下のようなパターンがあるように思います。

第一に、森岡さんの「男らしさ」の定義の中の「女性を制圧し保護する」ことのうち、「制圧」は放棄しないままに、「保護」だけを放棄するパターンです。昔から、収入は妻に頼りつつ、家事はせずに、むしろ家族に暴力をふるうような男性はいました。

Cさんは、先述のように年上の女性に引っ張ってもらうことを望んでいます。Cさんは、「仕事において出世欲のようなものはほんとうにないですね。もっとスキルアップしなきゃとか、稼ぎたいとか、考えただけで疲れる」[b:95]とも言っています。それゆえ、Cさんは、「家事は分担する」「彼女がすごいキャリア志向なら、僕が仕事を辞めて主夫をしてもいいかな」と言っています。しかし、もしCさんが実際には家事をしなければ、上のパターンに少し近い状況になります。

ただし、そうした男性にはお相手が見つかりにくいですし、たとえ見つかっても離婚される可能性が高いでしょう。性差別が解消されるにつれて、そうした男性が存在する余地は減ってきました。しかし、今日の社会では、まだ男性に家事をすることを求める規範は弱く、女性の離婚の権利も十分保障されていないので、個別にはそうした状況が生じる基盤は失われていません。

第二に、全体としては草食系で、たとえば女性をリードすることを負担に感じて、女性との話し合いによって物事をすすめる男性でも、家事・介護労働は女性に押しつけがちな人もいるでしょう。先述のように、話し合いや合意をすることにも面倒くささはありますが、それより家事や介護という労働をする方が、ずっと手間も時間もかかるので、そういう中途半端な男性は多いと思います。

言い換えれば、「コミュニケーションにおける性別役割」を解消するより「労働における性別役割分業」を解消するほうが、男性にとってハードルが高いので、前者は解消しながら、後者は解消しないということが、それほどは矛盾を露呈せずに、できてしまうということがあります。先述のDさんの考えが今のままだと、そうなる可能性があります。

以上のような2つの状況が、「美味しいとこどり」として、比較的ありうることではないかと思います。第一の状況は、「草食系男子」や「男らしさ」の特徴のうち、自分が楽になる面だけを取るパターンです。それに対して、第二の状況の場合は、第一の状況ほど「美味しいところ」ばかり取っているわけではないですが、より困難な部分は回避するというパターンです。

しかし、全社会的に見れば、女性役割が残るかぎり、男性役割も残らざるをえません。ケアの問題に関して言えば、ケア役割のジェンダー平等(その中には、ケアの社会化とその際の他職種との同一価値労働同一賃金も含まれます)なしには、女性は、男性と対等な経済的・社会的な力を獲得できないので、そのぶん男性には独自の規範や役割――女性を支配し保護する規範と役割が残らざるをえません。

上で述べたうちの第一の状況は、夫が家事をしなくても妻も経済力を持てる一部の「恵まれた」状況(女性が男性同様に正社員になれて、家事は母親がしているなど)の男性だけが可能で、かつ不安定なものです。第二の状況は、妥協的なもので、Dさんの事例で見たように、矛盾をはらんだものです。

つまり「『男らしさ』からの脱却」も「生きやすさ」も、それを本当に実現しようとすれば、男性もケア役割を担い、ケア労働者の権利を保障する社会をつくらなければなりません。

ただし、それをめざすには、第一に、高度に全社会的な視点が必要とされると思います。

直接自分の利益になる「賃金を上げる」ことも、それを職場で実現するには、運動をする手間も時間もかかりますし、差別される危険もあります。狭い意味での利己的な人にはできないことです。

男性が「『男らしさ』からの脱却」や「生きやすさ」を本当に実現するには、そのうえに、女性に対する「特権」も放棄しなければなりませんから、より高度な、より社会的な視点が必要です。そうしたことを、家族の中の無償のケア役割を担うような実践に結びつけるには、究極的には「自分のため」になる社会変革であっても、強い信念が必要なように感じています。また、「男らしさ」や競争原理からの脱却を、何のために生きるのか、といったことにまで深める必要もあると思います。

第二に、家族の中での無償のケア役割を担うためには、たんに「自分のため」だけでなく、しっかりと女性の身になって考えるということも、必要でしょう。ジェンダー平等についての理念や理論、歴史を深めることも、力になるでしょう。

ダイアン・グッドマンは、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、(1)被抑圧集団の人々への「共感」、(2)平等、他者の苦痛の緩和といった「道徳的原則、宗教的価値観」、(3)被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分類しています。男性である自分の「生きやすさ」は(3)の「自己利益」に属します。女性の身になって考えるということは(1)の「共感」に属します。ジェンダー平等についての理念や理論、歴史を知ることは、(2)の「道徳的原則、宗教的価値観」を深めることでしょう。

グッドマンは、第一に、(1)~(3)のそれぞれのモチベーションをより高度なものに育成すること、第二に、(1)~(3)を組み合わせることを説いています。

「美味しいとこどり」にならないためには、第一に、上の(3)「生きやすさ」の追求という視点をより高度なものに高めることとともに、第二に、(1)(2)のような視点を加味することが必要だと思います。

10 草食系男子にどう訴えるか

前川さんは、最後に、草食系男子への訴えをしておられるので、私もこの問題を考えてみました。

10-1 歴史を踏まえた訴え

前川さんは、男子普通選挙権を例に挙げて、人権や平等という概念が対象範囲を広げてきた歴史を踏まえて、私たちもその恩恵を得ているのだから、今後はジェンダー平等な社会を目指すべきことを訴えています。この訴えは、筋が通っています。実際、今の社会でも、自分たちが他者の運動の恩恵を得る一方で、自分たちの活動が他者にもプラスになっているという連帯は、あちこちで実現されていると思います。

私でしたら、近代史から説くとしたら、戦後改革の際の女性の参政権獲得を例に挙げて、そのとき、社会が良い方向に変わったことを述べて、今後も、女性の人権獲得は、社会をよくするためには必要ではないか、と訴えると思います。これも、歴史を踏まえた訴え方だと思いますし、私自身の確信でもあります。

ただし、より具体的で、よりリアリティがあり、もっと自分自身の経験を加味した訴えにしなければならないとも思います。

10-2 とくに草食系男子に焦点を当てた訴え

また、私は、とくに草食系男子に焦点を当てた訴え方も必要だと思います。

この点では、やはり森岡正博『草食系男子の恋愛学』の意義が大きい。森岡さんは、同書の第1章で「女性に集中し、話をよく聴くこと」、第2章で「女性の『身』になって考えること」を詳しく論じていますが、これらは、草食系男子の持つ素朴なジェンダー平等志向に着目して、それをさらに発展させるものです。

ただし、『草食系男子の恋愛学』の不足点として、前川さんは、家事・育児・介護などのケア役割の多くが女性に課されている問題についての記述が乏しいことを指摘しました。千田有紀さんは、同書には、妊娠や出産に関して「男性の傍観者的なスタンス」があることを指摘しています(「草食系男子の恋愛学」千田有紀のTokyo日記2009-05-13)。草食系男子に対する訴えについては、前川さんや千田さんが指摘したような点を加えることは必要だと思います。

私がもう一点指摘するとしたら、5-1で述べたように、草食系男子の中には、恋愛に熱が上がらない、一人が気楽でいいという志向もあるのですから、一人でいることの意味について説いて、そうした志向をサポートすることも必要ではないかということです。

10-3 とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴え

とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴えとしては、草食系男子の素朴な男女平等意識との矛盾を突くような訴え方もあるかもしれません。たとえば、女性に嫌がられることはせず、お互いの意思疎通を重視する一方で、「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と述べているDさんに対しては、次のような訴えも必要ではないかと思います。

あなたは、女性がいったん仕事を辞めて再就職する場合の難しさ、条件の悪さはご存知ですか? パートナーの方が「仕事を辞めたくない」と嫌がったり、「やっぱり仕事を辞めないほうがよかった」と後悔したりすることにならないようにしてください。こうした仕事や家事のあり方についても、パートナーの方にも、言いたいことを言ってもらって、意思疎通を進めてください。それから、もしパートナーの方が経済的にあなたに頼らないと生きていけないことになったら、言いたいことも言えなくなるような関係になることもあります。あなたには家事能力があって、料理もお好きだということを生かしてはいかがでしょうか?

おわりに

最初の問題意識に戻ると、私の場合、前川さんに比べて、以下の点で、男性が自らの性別役割から脱却することや自らの解放とジェンダー平等との関係について、より密接な関係として捉えているように思います。
・「草食系男子」における「男らしさ」からの脱却とジェンダー平等とをより深く関連したものとして考えていること
・「美味しいとこどり」が矛盾をはらんだものであり、社会全体としては不可能だと考えていること。

しかし、両者が同一でないことは、前川さんと同意見であり、より深く探求していかなければならないと考えています。

また、「草食系男子」と言われる現象については、学問的な調査自体が少ないと思います。私自身にはその力はありませんが、社会的に話題になっているのですから、そうした調査が広く行われてほしいと思います。


(注1)昨年私が発表した「最近の男性学に関する論争と私(PDF)」でも、女性解放とメンズリブは完全に表裏一体の活動ではなく、相対的に独自の活動である面があると同時に、根本的には深く関係していることを論じました(p.35-36)。
(注2)日比野英子監修、永野光朗・坂本敏郎編『心理学概論』(ナカニシヤ出版 2018)によると、「外発的動機づけ」が「賞賛、叱責、報酬、罰など、外的な要因によって行動が引き起こされている場合」であるのに対して、「内発的動機づけ」とは、「行動すること自体が目的となっている場合」を意味します。中島義明ほか編『心理学辞典』(有斐閣 1999)は、「内発的動機づけ」について、「個々の立場により多少の差異はあるが、大まかには、『その動機が引き起こす活動以外の賞に依存しない動機づけ』として、内発的動機づけを捉え」るとしています。また、wikipediaからの孫引きですが、美濃哲郎、大石史博編『スタディガイド心理学』(ナカニシヤ出版 2012)によると、「外発的動機づけ」が「義務、賞罰、強制などによってもたらされる動機づけ」であるのに対し、「好奇心や関心によってもたらされる、賞罰に依存しない行動」だといいます。
(注3)もちろん男女平等思想の影響は、男性だけでなく、女性にも及びますから、女性の行動が間接的に男性に影響を与える面もあるでしょう。たとえば、草食系男子の特徴の一つとして、「傷つくこと、傷つけることが苦手」という点がありますが、男性が恋愛関係で「傷つく」場合というのは、相手の女性が、男性の言いなりでなく、何らかの形で自己を主張するからだと考えられます。こうした間接的な形でも、男女平等思想は影響するでしょう。
(注4)ある人が抱く「窮屈さ」「生きやすさ」「心地よさ」といった感覚も、その人が「男女平等思想」を持っているか否かで異なってくるので、フェミニズム思想と完全に切り離しては考えられない面もありますが、ここでは、何らかの抵抗感が読み取れる個所を見てみます。
(注5)深澤真紀『平成男子図鑑』(日経BP社 2007)p.125-134。

拙稿に対する西井開さんの批判に応える

遠山日出也

『女性学年報』40号(2019年)に掲載した拙稿「最近の男性学に関する論争と私(PDF)」に対して、2020年1月9日、西井開さんからtwitterでご批判をいただきました(ご批判を含む西井さんの一連のツイート)。

西井さんは、『現代思想』2019年2月号に、「痛みとダークサイドの狭間で : 『非モテ』から始まる男性運動」という、理論的・実践的に斬新な報告をお書きになった方です。また、「Re-Design For Men」というグループの代表としても活動しておられます。

西井さんの拙稿へのご批判は2点あります。以下、それぞれについて応答させていただきます。それぞれについて、まず、最初に太字で要点をまとめています。

批判1:階級支配の視点を「持ちすぎた」ら、性支配の問題は矮小化される。
 →拙稿は、階級支配(や社会全体の抑圧)と性支配と間には密接な関連があるから、前者の克服のためにも後者の克服が必要であることを主張しているので、性支配の克服の必要性はいっそう強調される。


拙稿に対する西井さんのご批判の一点目は、以下です。
「江原由美子がマルクス主義フェミニズムへの危惧として書いたように、階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまうことがあると思う。階級的な問題がなくなれば男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか、という」(西井さんのツイート

まず、西井さんは、江原由美子氏が、マルクス主義フェミニズムへの危惧として上のようなことを書いたと述べておられますが、私は、まだ、江原氏がそのように書いている文献や、そのように要約できるような議論をしている個所は探し当てられていません(1)

そこで、とりあえず、ここでは、拙稿に対する「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」という文言のみにもとづいて、そうした危惧について、私の考えを述べさせていただきます。

私は、もし「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」としたら、それは、何らかの意味で、両者を「あちらを立てれば、こちらが立たず」というふうに、相反するものと捉えているからだと思います。

ひょっとしたら、両者を単純に並列的に捉えている場合も、場合によっては、そうした事態が起きるかもしれませんが、これは回避することが可能でしょう。もし必然的にそうなるとしたら、重層的な差別に取り組むことができなくなりますから……。

しかも、拙稿は、単に「性支配だけでなく、階級支配の観点を入れる」ことを主張しているのでなく、随所で両者の密接な「関連」を主張しています。その関連というのは、「性支配は、階級支配の強化、ひいては社会全体のさまざまな抑圧の強化と密接に結びついている」(p.35)ということであり、それゆえ「性支配を克服することは、階級支配からの解放、さらには、社会全体の解放につながる」(p.37)ということです。

両者の関連性を上のように認識していれば、階級支配を本当に克服しようとすればするほど、性支配も克服しなければならないことがわかりますので、上のような危惧は、当たらないと考えます。

この点については、拙稿で、私自身の経験としても、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」、「女性が完全な自由を獲得することなしに、プロレタリアートは完全な自由を獲得することはできない」と認識するようになったことで、ピンと来なかったり抵抗を感じたりする女性の要求に関しても、以前よりは受け止める姿勢が強まったことや、運動に継続して参加できるようになったことを述べています(p.29)。

ただし、江原氏の著作は非常に多いので、私が読んでいないものも多数あります。もし江原氏が上記のような危惧を示された出典をお教えいただければ、そこに、そうした危惧のより詳しい根拠が書かれているかもしれませんので、その根拠を含めて検討させていただきたいと思います。

また、階級支配と性支配との関係をどう捉えるかは、拙稿でも触れたように、マルクス主義フェミニズムの中においてさえ、「二元システム論」と「統一理論」との論争としてあらわれているように、それ自体が大きなテーマです。ひょっとしたら、西井さんは、この点について、拙稿にあまり同意しておられないのかもしれません。

今回の拙稿は、性支配と階級支配との関連性を立証すること自体はテーマにしていませんが、私が、両者の関連を以下のように認識していることは述べています。
 ・日本は欧米に比べて、女性の権利も、労働者の権利も、劣悪な状態にあり、その両者の状況には関連があると思う(p.28-29)。
 ・[家父長制を支える]カップル単位制(家族賃金制度)はトータルに見れば資本の搾取を強化する役割を持っている(伊田広行『性差別と資本制』より)(p.33)。
 ・「長時間労働や過労死は階級支配と性支配(家父長制的男性性)の両方から生まれるのであり、その両者が相互に結びついている」(p.33)。
 ・1980年代以後、新自由主義によって階級支配が強化されたが、それは性支配の温存・強化を組み込んでいた(p.34)。
 ・日本には女性経営者が極めて少ないという性支配の強さと、過労死を生むような階級支配の強さとは関連があると思う(p.34)。

さらに、より広い問題である、性支配(の克服)と社会全体の抑圧(解放)との関係については、私は、以下のように認識していることも述べています。
 ・今日より多くの男性が、より高い下駄をはかされていた戦前は、男性にとって良き時代だったどころか、あらゆる人権が抑圧され、膨大な戦死者を出していた時代だった。つとに伊藤公雄氏は、ファシズムは、〈男らしさ〉の革命であったことを明らかにしている。(p.33)
 ・スウェーデンでは、単に女性の地位が高いだけでなく、労働者、パートタイマー、高齢者、障害者、在住外国人、性的マイノリティの地位も高く、「デモクラシーの実験室」と呼ばれていることは、性支配の克服とさまざまな抑圧からの解放との間には関連があることを示唆している(p.36)。
 ・男性による女性支配と人間による自然支配とが結びついていることを批判するエコロジカル・フェミニズムは、女性解放や性別分業の克服なしには、人間の生存基盤である自然を守ることもできないことを指摘している(p.37)。
 ・憲法24条に対する攻撃は、憲法9条や他の人権条項に対する攻撃と不可分なので、それらに対抗するためにも、24条の理念を実現すべきであることが、多くの視点から説かれてきた(p.37)。

もし、西井さんが拙稿の上のような認識について異論や反証をお持ちでしたら、具体的にご指摘いただくと、議論が深まると思います。

また、「階級的な問題がなくなれば、男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか」という危惧についてですが、私は、階級的問題とジェンダー問題の片方だけをなくすことはできないと考えています。

この点は、日本の社会運動の教訓としても言えることだと思います。たとえば、竹信三恵子氏は、1986年の男女雇用機会均等法の制定当時の労働組合の多くが、「家族を養う」ことを目標にしていたために、残業規制にさほど関心を示さなかったことを指摘しています(『家事労働ハラスメント : 生きづらさの根にあるもの』岩波書店 2013、p,32)。また、伊田広行氏は、つとに、男性中心の労働組合が、シングル単位視点を持てなかったことが、今日の無権利な非正規雇用の蔓延を招いたことを指摘しました(『21世紀労働論:規制緩和へのジェンダー的対抗』青木書店 1998)。これらは、いずれも、当時の労働組合にジェンダー平等の観点が弱かったために、労働時間や非正規雇用についての資本の専横を規制できず、今日では、それによって、男性を含めた多くの労働者が苦しんでいるという教訓になると思います。

ただし、社会の一部の個別的状況については、階級とジェンダーの片方だけを解決した(ように見える)場合もあると思います。たとえば、西井さんの危惧とはある意味で逆の例ですが、外国人の家事労働者の導入によって、女性の家事負担の問題を解決したという話ならば、少なくない国にみられるでしょう。もし西井さんがそうした状況に対する危惧をお持ちでしたら、具体的な議論をしていきたいと思います。

批判2:階級支配という視点を入れることで、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」(抑圧集団と被抑圧集団の相違を無視して経験の類似性を強調しすぎること)に陥る危険が生じる。
 →(1)階級支配の視点からは、たしかに「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生じるが、拙稿は階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているので、「女性は、男性同じく階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさもある」という認識になる。
 (2)グッドマンの指摘は、被抑圧集団の経験に共感する際の落とし穴についてのものである。拙稿が階級支配と性支配の関連を述べたのは、女性に共感する手法としてではなく、性支配の克服が自らの利益にもなることを説くためなので、その点を認識することによって、むしろそうした落とし穴を回避する努力も強まる。
 (3)拙稿は、男女に共通した階級支配を言うことは、男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがある――たとえば、日本の女性の雇用労働時間も欧米の男性に比べて長時間である――ことを過少評価しなくなるためにも重要であることも述べている。


拙稿に対する西井さんのご批判の二点目は、以下です。
「また、階級支配という視点を入れることで男性たちが主体的にジェンダー関係の変革に向かう、という実践的意義が触れられているが、本文でも引用されているダイアン・グッドマンの『真のダイバーシティをめざして』の中で紹介されている「同一視のパラドックス」(優位集団が劣位集団との相違点やそれが起きる社会的文脈を無視して経験の類似性を強調しすぎること)が起きる危険性―「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」と考えること―にも注意すべきと思った。(これは遠山さんも危惧されている)。」(西井さんのツイート

(1)たしかに(大多数の)男性も女性も階級的には被支配階級だと認識すれば、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生まれます。

しかし、まず前提としてご確認いただきたいのは、拙稿は、階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているということです(p.34-35)。ですから、拙稿からは、「女性は、男性同様に階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさがある」という認識が出てきます。

(2)次に、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」の危険性と拙稿の内容との関係について述べます。

拙稿の「おわりに」でも述べているように(p.40)、ダイアン・グッドマンは、Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups(邦訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』)の中で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、1.被抑圧集団の人々への「共感」、2.平等、他者の苦痛の緩和といった「道徳的原則、宗教的価値観」、3.被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分類しています(p.122、邦訳p.181)。

グッドマンが、「同一視のパラドックス」の危険性を指摘しているのは、上記の1.の「共感」に潜む落とし穴、すなわち、「マジョリティの人々に対して、マイノリティの人々の経験に共感させようとする場合」の注意点を述べるためです(p.138、邦訳p.204-205)。

それに対して、私が性支配と階級支配との関連を述べたのは、なにも、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に「共感」する手段としてではなく、男性が性支配を克服することが、自らの階級的抑圧を克服するためにも必要であることを主張するためです。すなわち、3.の「自己利益」というモチベーションを喚起するためです(2)

上でグッドマンが指摘しているように、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に共感しようとする際には、「同一視のパラドックス」を含めた、さまざまな「落とし穴」があるわけですが、その落とし穴にはまらないようにするためには、それなりの努力が必要です。

たとえば、ご承知のように、グッドマンは、「同一視のパラドックス」の一例として、白人が「黒人が、自分以外が全員白人である場に1人だけいるという状況」について考えようとする場合、その白人が「自分も他の人が黒人である場に、たった1人、白人として参加したことがある」という経験にもとづいて、その居心地の悪さや疎外感を語るという事例を挙げています。グッドマンは、前者の状況と後者の状況には違いがあるにもかかわらず、それを無視することを問題にしているわけです。こうした「同一視のパラドックス」を克服するためには、単に自分の経験を思い出すだけではなく、当然、黒人が置かれた被差別状況について、いろいろと学ぶ努力が必要になると考えられます。男性と女性の場合も同じでしょう。

そうした努力をするモチベーションを高めるためには、「男性が性支配を克服することが、自らの階級的被抑圧状況を克服するためにも必要である」ということを理解することが一つの力になると思うのです。ですから、むしろ、拙稿の認識は、ご指摘の「同一視のパラドックス」にも陥る危険性を防ぐ力にもなると思います。

(3)また、私は、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という側面を認識すること自体も重要だと思います。これは、拙稿で「二段構えで考えることの第二の実践的意義」として述べているように、「男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがあることを過少評価しなくなる」(p.35)ためです。

拙稿でその例として挙げているのは、「日本の女性は、日本の男性よりも週労働時間が8時間前後短いにもかかわらず欧米主要国の男性よりも長時間働いている。このことは日本ではフルタイム労働者は女性も働きすぎであることを意味する」「女性の場合は、多くの場合、その上に性差別の産物である家事労働時間の長さが加わるので、非常に深刻な状況になる」ということを見逃しにくくなる、ということです。

他にも似たような例は挙げられるでしょう。たとえば、自殺率は、男性の方が女性よりずっと高く、また、日本の男性の自殺率は、国際的に見ても高いわけですが、日本の女性の自殺率も、男性に比べれば低いにもかかわらず、国際比較をすれば、むしろ男性より順位が上です(舞田敏彦「日本の女性の自殺率」データエッセイ2018年8月20日)。自殺率は、階級の問題だけでなく、ジェンダーを含めたさまざまな社会全体の抑圧が反映していますが、上と同様のことが言えると思います。

拙稿では展開できませんでしたが、性支配と階級支配との関連を捉えることは、「女性活躍」など、現在の新自由主義的な資本主義の女性活用政策や男性ジェンダーに関する政策に対してきちんと対峙する上でも重要ではないかと思います。

ナンシー・フレイザーは、「第二波フェミニズムは、ネオリベラリズムという新精神に、鍵となる成分をはからずも提供したのではないか」と述べて、第二波フェミニズムと新自由主義の親和性を問題にしました(ナンシー・フレイザー著、関口すみ子訳「フェミニズム、資本主義、歴史の狡猾さ」『法學志林』109(1)、2011年)。菊地夏野さんは、フレイザーの議論を日本に紹介しつつ、フレイザーの主張は女性運動が一定の支持や広がりを得ているアメリカ社会だからこそ成立する批判であると述べ、日本では行政や企業がフェミニズムと見紛うようなメッセージを発して政策や施策をおこなっていることに注目して、近年の日本のジェンダーに関する法制(均等法、男女共同参画社会基本法、女性活躍推進法)などを検討し、日本における「ネオリベラル・ジェンダー秩序」を論じました(菊地夏野『日本のポストフェミニズム:女子力とネオリベラリズム』大月書店 2019)。

フレイザーの場合、上のような見地に立って、「社会主義フェミニズムの理論化を再生できたらと願う」と述べています。もちろんそれは「時代遅れとなった二元体制論を再活用」することではなく、「最近のフェミニスト理論の最良のものと、資本主義に関する最近の批判理論の最良のものとを統合」するということです(フレイザー前掲論文p.28)。また、菊地さんは、「新自由主義や植民地主義という概念で問題化される資本と国家の絡まった権力構造をフェミニズムが批判的に見据えることができていない」ことを問題にしています(菊地前掲書p.185)。

こうした問題は男性学やメンズリブも無縁ではないと思います。というのは、メンズリブは、社会運動との関わり自体がまだそれほど強くないと思うからです。この点については、拙稿中でも、「『男らしさ』を押しつける社会構造自体を変革する(……)社会的な働きかけがまだまだ手薄」だという、新聞記者の指摘を紹介したり(p.40)、かつてに比べて、「男性学においてさえ、労働運動に対する関心が弱まっている」(p.39)と述べたりしたところです。

また、拙稿では引用しませんでしたが、海妻径子氏が、「今は、私は皮肉を込め『電通博報堂的メンズリブ』と呼んでいますが、イクメンプロジェクトやファーザリング・ジャパンの活動がファッショナブルな新ライフスタイルとして宣伝され、企業や女性活躍だとか、政権のお金も流れてスペクタル化しています。(……)日本は、行政メンズリブがこれだけテコ入れしていながら、それに対抗する男性運動が展開できていない」(井上匡子・海妻径子・三浦まり・国広陽子「男性にとっての男女共同参画――フェミニストはどう見るか」『女性展望』692[2018年5-6月]号、p.4)と述べているのも気になるところです。

こうした状況と対峙するためにも、性支配や男性ジェンダーの問題と資本主義の問題とのかかわりは重視しなければいけないと思います。


(1)江原氏は、『わかりたいあなたのためのフェミニズム入門』(JICC出版 1988)や『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房 1991)、『装置としての性支配』(勁草書房 1995)でマルクス主義フェミニズムについて批判的言及をしていますが、それらを見るかぎりでは、そうしたことは述べていないように思います。
(2)ですから、私は拙稿について、「今回、私は、『共感』を出発点にしつつ、『自己利益』の観点を中心に論じた」(拙稿p.40)と言っています。

江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題提起を

遠山日出也    
《目次》
はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが……
1 江原氏による田中氏に対する批判の要約
2 田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ
 2-1 田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服
 2-2 男性の仕事中心の生き方についても、具体的な働き方の変革を主張
 2-3 田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的
 2-4 「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か?
 2-5 田中氏が変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か?
 2-6 男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性
 2-7 田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか?」――私の場合
3 田中氏の考察の到達点を踏まえたうえでの課題の提起
 3-1 課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯
 3-2 男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識
 3-3 労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯
おわりに――女性抑圧や男性性の否定的面と社会全体の抑圧との関連への注目も必要

はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが……

江原由美子氏が、「フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか」(現代ビジネス 2019.8.24)において、田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(中経出版編集、KADOKAWA出版、2015年)を批判した。

私も、江原氏が、「男のつらさ」に寄り添うことの意義を認めつつ、フェミニズムの観点から課題を指摘している点には共感する。また、江原氏の批判は、重要なポイントにおいて当たっている部分があると思う。

しかし、私は、江原氏は、田中氏の考察の到達点を十分把握しないままに、田中氏を批判している面がかなり大きいと考える。

田中氏の到達点を踏まえたうえで批判や課題提起をすることは、田中氏の考察を十分に生かすためにも、議論をかみ合わせて、批判や課題提起をより的確なものにするためにも、必要であろう。そのことは、男性学とフェミニズムとの相互の連携を構築するうえでもプラスになると思う。

本稿では、1で、江原氏の田中氏に対する批判を要約し、2で、江原氏の批判が田中氏の考察の到達点を踏まえていない点を述べ、3で、そのうえで提起される課題について述べたい。

1 江原氏による田中氏に対する批判の要約

まず、以下で、江原氏の田中氏に対する批判を要約しておこう。

江原氏は、まず、田中氏の考え方を以下のように要約する:田中氏は、社会が変動したにもかかわらず、男性の生き方に対する社会的イメージには変化が生じていないというギャップに「男性のつらさ」の原因を求めている。田中氏が最も問題だと指摘するのは、「男性と仕事とのつながりが強すぎる」ことである。高度経済成長期とは違って、今日では男性でも非正規雇用が増大しており、正社員になれたとしても、昇進や昇給は期待できない。にもかかわらず、今日でも「男性は学校を卒業したら定年退職までフルタイムで働くべきだ」というルールが依然としてあり、その結果、フリーターや契約社員、無職の男性自身も、自らに対して否定的評価をしてしまう。それゆえ、男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作ることが必要である。

それに対して、江原氏は、以下のように言う。

田中氏の著作に代表されるこうした考え方を「男はつらいよ型男性学」と呼んでおこう。こうした議論は、ロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している。

日本では男性よりも女性のほうが幸福度が高いが、主観的な幸福度の高さは、客観的な生活の質の高さを意味しない。男性は、客観的には女性よりもずっと良い条件にある「仕事」においても女性より満足感が低く、「家庭生活」や「配偶者との関係」においては女性よりも満足感が高いのに、女性ほど「幸せ」とは感じていない。

「男はつらいよ型男性学」が「男らしさイメージを変える」ことに希望を見出すのは、男性は個々の要因で見れば女性よりも「満足」してもおかしくないのに、「本来あるべき男性性」イメージに縛られて、「幸福」であると思えないでいるからだろう。しかし、そのような主張は、男性たちにどこまで受け入れられるのか?

「男はつらいよ型男性学」が問題にした「男のつらさ」は、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされた先進国の製造業男性労働者の「つらさ」と、ほぼ一致している。彼らは、失業や賃金低下・不安定就労化を余儀なくされた。この層の不満が爆発したことによって、移民排斥・自国第一主義が世界を席巻している。彼らは、本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りしていくものとして、国内のマイノリティにも反感をあらわにする(A.R.ホックシールド、『壁の向こうの住人たち』、布施由紀子訳、岩波書店、2018)。

反感の背景にあるのが、「無意識化された特権意識」である。男性の「幸福度」が女性よりも低いのは、「自分の方が当然優先されるべきだ」と不満を感じているからではないか。

もしそうだとしたら、「男性が享受している特権」には注目せずに、「男性のつらさ」に焦点を当て、男性に呼びかけるという戦略は、この呼びかけに答える男性たちに、男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、「無意識の特権意識」を刺激してしまう可能性もある。

男性の雇用のあり方の変化と男性の生き方に対する社会的イメージのギャップに苦しんでいる男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」――それは「フェミニズム叩き」に繋がるかもしれない――ことの方が、ずっとわかりやすい。

しかも、田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は、社会的公正や平等などの価値観ではなく、「もはや社会が変わってしまったから」という外在的根拠であるにすぎない。

実際、「仕事と結びついた男性性イメージを変えること」は、より根本的な「(男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった)男性性アイデンティティ」を維持したままでは、非常に困難である。「男性性イメージの変革」に向かうには、より強い動機付けが必要だ。

「男性のつらさに寄り添いつつ、男性アイデンティティを開いていく」ような男性学の展開を、期待したい。

2 田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ

私は、上述の江原氏の批判に対して、以下に述べていくような疑問を感じた。

2-1 田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服

江原氏は、田中氏の主張は「男の生き方のイメージを変えること」であり、「男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作」ることであると言う。

江原氏は、そうしたイメージを変えることは、より根本的な「(男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった)男性性アイデンティティ」を維持したままでは困難だと批判している。

2-1-1 たしかに田中氏は男性の「イメージ」という語を使っているが……

たしかに、『男がつらいよ』(以下、「本書」と言う)には、「理想の男性イメージと現実とのギャップ」の類を問題にしている個所がある(p.10,16,103)。

しかし、まず注意してほしいのは、田中氏は、「男の生き方のイメージ」を変えるとは言っていないことである。田中氏は、「自分の価値観や行動」(p.16)、「男性の生き方」(p.103)を変えると言っている。すなわち、頭の中の観念的な話ではなく、おおむね具体的な行動を言っているのである。

また、本書の中で、「イメージ」という言葉が使われているのは4か所(1か所で3回使っている個所があるので、回数は6回)だけであり、そのうち3か所は、「はじめに」と「おわりに」である(p.10,16,221-222)。本によっては、「はじめに」と「おわりに」の中に本全体のエッセンスが書かれているものもあろうが、本書の場合は、そうではない。「はじめに」の後で、議論が具体化され、深められている。

2-1-2 田中氏の主張の核心は、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服

田中氏が本書で男性性について最も強調しているのは、男性の価値を「他人と『競争』して勝利すること」(p.26)に置くということである。田中氏は、その問題点を、第1章「男性はなぜ問題をかかえてしまうのか」の冒頭から語っている。すなわち、競争しているがゆえに「他人との比較」を抜け出せず、しばしば人を蔑むが、見下される側は「とてつもなく迷惑」だし、「常に勝ち続けることなど不可能」なので「すぐに自分が蔑まれる番が回ってきます」(p.28-29)と。さらに、「男は強くなくてはいけない」という圧力によって、うつ病などにかかってしまい、「弱音を吐け」ないので、気分は楽にならない(p.36-49)など。第3章では、男性が「競争」をベースにした生き方をしていることが、恋愛・結婚認識や女性との関係にも問題を起こしていることが語られており(p.122,133,144-145)、最後の第5章「これからの時代をどう生きるか」でも、「競争」の弊害が強調されている(p.204-207)。

すなわち、男性の「『競争』して勝利する」志向に対する批判が、本書全体のベースになっている。「『競争』して勝利する」志向は、伊藤公雄氏の言葉で言えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」(『〈男らしさ〉のゆくえ』新曜社 1993 p.167)のうちの、おおむね「優越志向」に相当するだろう。

こうした田中氏の主張は、「男性性アイデンティティ」の、全部ではないが、重要な側面を問い直す主張だと言えよう。この点は、江原氏が「男性性アイデンティティ」の例として、田中氏同様、「男性は強くあらねばならない」ことを挙げていることを見てもわかる。

2-2 男性中心の働き方に関しても、単に「イメージ」でなく、具体的な働き方の変革を主張

たしかに江原氏が指摘するように、田中氏は「日本では、男性と仕事の結びつきがあまりにも強い」(p.7)ことは重視している。

ただし、田中氏が第2章「仕事がつらい」で説いているのは、男の生き方の「イメージ」を変えるというより、もう少し具体的な働き方の変革である。すなわち、田中氏は、長時間労働や会社が社員に「生活態度としての能力(生活のすべてを仕事に注ぎ込めること)」を求めることの是正を説いている(p.77-83)。

すなわち、男性と仕事との関係についても、田中氏が主張しているのは、単に男性の主観的イメージを変えることではなく、男性の具体的な働き方を変革することである。

2-3 田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的

江原氏は、田中氏の主張について、「男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、『無意識の[女性に対する]特権意識』を刺激し」て「フェミニズム叩き」と呼応してしまいがちだと批判している。

しかし、2-1で述べたように、田中氏は、男性アイデンティティを呼び覚ますのではなく、むしろ崩している。そして、その方向は、以下で述べるように、むしろフェミニズムと親和的な方向である。

2-3-1 2-1や2-2の内容はフェミニズムと親和的なもの

田中氏は本書で女性差別の問題を正面から論じているわけではない。しかし、以上の2-1や2-2の内容は、フェミニズムと親和的な性格を持っている。

まず、2-1で述べた男性性アイデンティティの克服に関して、その点が明確に表れているのは、田中氏が、「『協調』するよう教えられてきた女性は、人との共感を目的としたコミュニケーションを取る傾向がある」のに対して、「『競争』を基本として育てられてきた男性」は「一方的にまくしたて、相手を言い負か」そうとしがちだが、それではダメで、「相手の話をしっかり『聴く力』を身につけることが必要です」と述べている(p.47-49)個所である。これは、男性の「競争」志向・優越志向について、女性性と対比しつつ克服すべきことを説いたものと言える。

田中氏は、また、男どうしの間で、論戦ではなく「自分の思っていることを話し、それをしっかり聞いてもらえる」(p.199)ような会話ができる関係を作る試みについても語っている。この点は、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト・プレス 2015)でさらに発展させられ、男性どうしの友だちづくりを主張している(第3章)。これは、澁谷知美氏が『平成オトコ塾 : 悩める男子のための全6章』(筑摩書房 2009)第1章で「男の友情」を提言したことに近い。『〈40男〉はなぜ嫌われるか』では、また、田中氏は、男性は、若い女性に執着するのではなく、男女間の友情を育てることを述べる(第2章、第4章)など、既成の男どうしや男と女の関係を変える主張をしている。

また、2-2の労働問題に関しても、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、同時に職場からの女性排除や職場における女性差別をも生み出している問題である。それゆえ、それらを是正することは、ジェンダー平等にとっても重要な課題である。

2-3-2 結婚や恋愛をテーマにした章では、男女関係の平等化を主張

また、本書の第3章「結婚がつらい」では、田中氏は、恋愛が若者の義務になっていることや「男はリードする側/女はリードされる側」という図式、男性が女性を性的魅力や若さばかりで評価すること、性の二重基準などについて、それらが男性にとっても問題をもたらすことを述べつつ、批判をおこなっている。田中氏は、こうした直接男女関係をテーマにしている章では、男女関係の平等化を説いている。

この章でも、田中氏は、男性には「『競争』して勝つ」志向があるために、「男性は女性に謝れない」が、そうであってはならず、素直に謝罪すべきことを説くなど(p.132-133)、男性の「『競争』して勝つ」志向と女性に対する態度の関連を述べている。

以上の2-3-1、2-3-2より、田中氏の主張は、女性差別をテーマにはしていないが、フェミニズムとも親和的であることがわかる。そして、それは偶然ではなく、田中氏が「『競争』して勝利する」男性アイデンティティの克服を主張していることと関係している。

田中氏が男性に説いているのは、女性に対する男性の「無意識化された特権意識」を刺激する方向ではなく、むしろその逆の方向であると言えよう。

2-4 「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か?

また、以上のことを踏まえると、「男はつらいよ型男性学」というネーミングが適切かどうか疑問である。

たしかに田中氏の主張は、男のつらさに焦点を当てている。

しかし、第一に、田中氏は「男が」と言っており、「男は」とは言っていない。江原氏自身も、現在は「男『が』つらい時代」だと述べつつも、なぜ男性学の型に対するネーミングでは、「が」を「は」に変えたかについて説明していない。男「は」というと、江原氏が述べているように、「男性の人生は(女性と比較しても)つらいものだ」という中の丸カッコ内の「女性との比較」というニュアンスが生じる。しかし、「が」という語の意味や田中氏の主張には、そのような比較はなく、単に「男であること」がつらいというニュアンスである。

第二に、「男はつらいよ」という名称には、「男はつらい」ことを自嘲したり、他者(社会や女性)に向けて訴えたりしているようなニュアンスがある。しかし、田中氏の本は、主に男性に向けて、自らを変えるように訴えているのであり――この点については江原氏も認識している――そうした言説とは異なる。他の男性学の研究も、全体として言えば、「男がいかにつらいか」を主張するというより、男のつらさを分析し、その対応を考えるものではないだろうか。

「男のつらさをテーマにした男性学」といった名称にしておいたほうが適切のように思う。

2-5 田中氏が男性性の変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か?

江原氏は、田中氏のような男性学は、「いわゆるロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している」と述べているが、その点を、以下のような批判に結びつけている。

(1)田中氏が男性性を変えるよう呼びかけても、「男性からすれば、『男性性を変える』ことよりも『男性の雇用をもと通りにする』こと――それは『フェミニズム叩き』に繋がるかもしれない――の方が、ずっとわかりやすい」

(2)田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は「『もはや社会が変わってしまったから』という外在的根拠、『昔のような男性性を維持しても、メリットはない』という合理的根拠であるにすぎない」

2-5-1 たしかに田中氏自身がそうした主張を述べているが……。

たしかに田中氏は、「はじめに」で、現在は、従来のように男性が正社員として就職し、結婚して家族を養い、定年まで勤めあげるという「普通の男性」としての生き方ができなくなったことに、「多くの男性が『生きづらい』と感じる根本的な原因があります」(p.5-6)と述べている。

しかし、本書全体の内容を見ると、田中氏の議論は、上の発言とは異なっている面が非常に大きい。

2-5-2 全体を読むと、田中氏は上の世代の男性の状況にも批判的

まず、2-1で述べた「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの問題や2-3-2で述べた恋愛や結婚の問題は、どう見ても、基本的には上の世代からあったものであり、ロスジェネ世代になって初めて生じた問題ではないだろう。

さらに、2-2の仕事や雇用の問題についても、田中氏は、団塊の世代の定年退職者が、それまで仕事一筋で生きてきたために、虚脱感や喪失感に悩んでいることを、「昭和的男らしさ」の問題として指摘している(p.91-94)。また、田中氏は、ある定年退職者の男性が、現役時代を振り返って「残念」だと述べたこと、すなわち、サラリーマンという「普通」の生き方しかできず、自分にはその程度の能力しかなかったのが「残念」だという気持ちを訴えたことを紹介して、「すべての男性が輝かしい業績を達成できるわけではない」以上、「『男らしさ』へのこだわりが、年齢にかかわらず男性の『生きづらさ』につながってしまう」と指摘している(p.202-204)。

社会問題という面から見ても、男性の雇用の非正規化が注目されたのこそ比較的最近だが、長時間労働や過労死に関しては1980年代には社会問題として注目されていた。

以上から見て、田中氏の主張は、上の世代の状況に関しても、全体的には批判的なものだと言えるだろう。

たしかに低成長期になったことによって「『競争』の先にいる勝者はごくわずか」(p.51)になったといった変化はあろうが、それは部分的なものであろう。

とすれば、田中氏としては、自らの考察は現代日本におけるジェンダーの根本問題についてであることを述べつつ、近年深刻さを増している面もあると主張したほうがよかったといえよう。

その意味で、江原氏の指摘は、田中氏の主張のしかたの弱点を突いていると思うが、田中氏の考察の到達点を踏まえるという面では弱点があると考える。

すなわち、田中氏が論じている男性の生きづらさの多くは、「男性の雇用をもと通りに」しても解決しないと思うし、田中氏が男性性の変革を求める主な理由が「社会が変わってしまったから」であるとも言えない。

2-6 男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性

2-6-1 男としての困難や苦労を重視することは、世間一般の認識にすぎない

江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目せずに、「男のつらさ」に焦点を当てていることを問題にしている。後述のように、私も、「男性が享受している特権」に注目しないことは不十分であり、それに対する批判には根拠があると思う。

しかし、「男のつらさ」に焦点を当てることが、「『無意識の特権意識』を刺激してしまう可能性もある」という点については、どうだろうか?

江原氏は、反リベラル派の男たちがマイノリティに反感を感じるのは「本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りして」いくからだと説明している。私が素朴に疑問を感じるのは、フェミニズムに対する「無意識の特権意識」にもとづく反感は、べつにつらい状況になくても起きるのではないか? ということである。たとえ幸せであっても、「幸せを脅かす者」に対する反感が起きるのではないだろうか? この点については、さらなる解明が必要だと思う。ただ、ネット右翼に関しては、それを貧困や不安定雇用と結びつける認識は、すでに実証的な調査研究によって否定されている(永吉希久子「ネット右翼とは誰か」樋口直人ほか『ネット右翼とは何か』青弓社 2019 p.23-24,34)。

また、男であるがゆえの困難や苦労を重視することは、男性学独自の主張ではまったくない。「仕事で苦労をしている夫を癒すのが、妻の役割です」といった形で語られる社会の一般通念であり、むしろ現状を肯定する文脈で語られる場合のほうが多いのではないだろうか?

もしも「男がいかにつらいか」ということだけを訴えて、それに対して何の対応も語らない「男性学」があれば、「『無意識の特権意識』を刺激」することもありうるだろうが、田中氏らの男性学がそうしたものではないのは、ここまで述べてきたとおりである。

2-6-2 男性学の独自性は、何らかの男性性についてのジェンダー平等の方向への変革にあり、右派とは方向性が逆

男性学の独自性は、一つは、男性自身が男性の困難を「つらい」と言ってもいいと認めることだろう。しかし、メンズリブは、世間一般のように、そうした訴えを女性たちに向けるようなことは基本的にしていない。メンズリブは、男たちの悩みに対して男たちが応答するために、ワークショップや「男性相談」に取り組んできた。田中氏の著作も、男性が男性たちに対して自らを変えるように訴える著作であり、この点については、江原氏による紹介からも明確である。

もう一つのより重要な男性学の独自性は、男性のつらさを語るだけでなく、必ず何らかの点で、男性性や男性役割自体を、ジェンダー平等な方向に変革する視点が入っていることにある。2-3で述べたように、田中氏もその例に漏れない。たとえば田中氏は、男性の自殺率の高さについても、「弱音を吐けないことが原因の一つ」(p.76)と述べて、「男は強くなければならない」という男性アイデンティティの問題として捉えている。

それに対して、右派の主張は旧来の男性性の回復を主張するものである。江原氏が今回参照したホックシールドも、アメリカの右派の男性性に対する訴えについて、次のように描写している。「トランプは、男たちを『もう一度偉大にする』ことも明確に約束した。“男たち”とは、拳を撃ちつけ、銃を持ち歩くマッチョな男と、野心溢れる起業家の両方を指す」(ホックシールド前掲書p.325-326)。すなわち、旧来の男性性を喚起するものであり、男性学とは相容れないものだと言えよう。

2-6-3 日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュに使われた例は見当たらない

男性学が右派とは方向性が逆である証拠に、日本のメンズリブがバックラッシュ的運動をした例がないのはもちろん、日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュ派に使われた事例も見当たらない(注1)。アメリカの状況についてはよく知らないが、ホックシールドも、そのような事例は挙げていない。

もし今後日本でそれがありうるとしたら、アメリカの「男性の権利派」のよう反フェミニスト的男性運動や保守的な立場の男性運動が盛んになって、それらと右派が結びつくようなケースではないか。

2-7 田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか?」――私の場合

この点がどうであるかを実証するためには、何らかの調査が必要だろうが、とりあえず私自身の場合はどうだったか?

私は、職業的研究者になりたかったのだが、結局なれなかった。そのことに少し寂しい気持ちを抱いている。

そうした中、田中氏の『〈40男〉はなぜ嫌われるか』を読んで、ドキッとした。そこには、「競争は終わった。もう逆転の可能性はない」(p.122)と書かれており、まさにそのとおりだったからだ。

しかし、田中氏は続けて、「ただ、ほとんど全ての40男の夢は実現しなかった」(p.120)と述べている。この田中氏の言葉によって、私は、こうした問題は私だけの話ではない、自らの男性としての意識のあり方を含めた構造的な問題であることを認識させられた。

さらに田中氏は言う。「冷静になって振り返ってみれば、この40年の間に抱いてきた夢は、そもそもすべて他人事だったのではないか」「自分の頭で考え、試行錯誤し、生き方を見つけることができなければ、出世レースを続けていようが、『普通』の人生を歩もうが、『普通』から脱落しようが、全く同じである」「だからこそ、40男は夢を持つ必要がある。自分がどのような人間なのかを理解し、自分が何をしたいのかを考える」(p.131)と。

上の個所を読んで、私には、まだ、男性性の現れとしての競争原理に支配された世俗的価値観に囚われているところがあるのではないか、と反省させられた。

また、私はフェミズムにも少し関わっているが、その面でも、私は、ひょっとしたら惰性的に活動を続けているだけで、本当に自分の頭で考えて、自分が貢献できているかどうかや自分が何をしたいかを問いなおすことがおろそかになっているところがあるのではないか、と考えさせられた。

田中氏は、管理職になった友人が、競争原理にもとづく「夢」を持つのではなく、「自分の部署では定時に帰れる体制を作りたい」と言っていることについて、「素晴らしい夢」だと言っているが(p.132)、そもそも労働問題やジェンダー問題は、そうした世俗的価値観には乗りにくい。もちろん、現実にはそれらの中でも世俗的価値観が影響力を持つことはあるが、そこから脱却しなければ運動は発展しないだろう。その意味でも、田中氏が説くような姿勢を持つことは、フェミニズムを含めた社会的活動にとってプラスになる。

私の場合も、フェミニズムとの関わりを含めた、生き方をしっかりさせる上でプラスになった。

田中氏が述べていることがまったく新しい考えだというわけではないだろう。たとえば、伊田広行氏が「主流秩序論」(伊田広行『閉塞社会の秘密―主流秩序の囚われ』アットワークス 2015など参照)として説いていることとも近いし、伊田氏の方がより議論が深まっている面もあろう。しかし、田中氏は田中氏なりの経験や研究から語っているからこそ、独自の説得力があった。

私の場合、フェミニズムをそれなりに受け入れている点では、平均的な男性と同一ではない。しかし、上のような反省をすること自体は、田中氏の本の素直な読み方だと思うので、その意味では私個人の特殊な感想ではないように思う。

ただし、自分自身の問題として考えても、田中氏が語るような男性性と女性抑圧との関係については、もう少し議論を展開しないと見えてこない面があることはたしかである。

3 田中氏の考察の到達点を踏まえたうえで課題の提起

3-1 課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯

最初に触れたように、私も、田中氏の主張はジェンダー平等の観点から見ると課題を残しているという点では、江原氏と同感である。以下述べるように、江原氏の批判の中には、重要なポイントで当たっている点があると思う。

ただし、これまでの検討からわかるように、田中氏のようなフェミニズムに親和的な男性学の課題は、「無意識の特権意識を刺激することによって、フェミニズム叩きにならないようにする」といった低い水準のものではないだろう。より高い水準のもの、すなわち「フェミニズムにより明確に接続すること、フェミニズムと連帯すること」だと考える。

男性学にはこうした課題があることは、すでにメンズリブや女性学で指摘されてきたことである(注2)。もし田中氏のような考察とフェミニズムとがより明確な接続をして、フェミニズムとの連帯がおこなわれれば、フェミニズムにとっても利益になるだろう。

もちろん個別の研究者や著作がすべての課題を担えるわけではない。また、以下述べるようなことは、田中氏もわかっているけれども、本書では捨象しているにすぎない面もあろう。

しかし、私は、田中氏の主張がフェミニズムと接続し、連帯する上では、どのような課題があるかは明確にしておく必要があると思う。それは、トータルな男性学やジェンダー論として必要なことだと思うからである。

私は、田中氏の主張には、以下のような課題があると考える。たとえば、私が授業で田中氏の本を取り上げるとしたら、以下のような点を補足するであろう。

3-2 男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識

3-2-1 両者の関係を認識し、男女差別全体に視野を広げる必要性

江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目していないことを批判している。

先述のように田中氏の議論はフェミニズムと親和的ではあるが、たしかに女性との関係の変革自体については、第3章以外では、正面からは述べていない。また、田中氏は、女性が置かれた被差別的状況に対する男性の責任や男性の加害については、ほとんど語っていない。

伊藤公雄氏の言葉を使えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」のうち、田中氏が論じているのは「優越志向」であり、他の2つの志向には目を向けていない。もちろん上の3つの志向は関連しているから、田中氏のように、男性の「『競争』して勝利する」志向を、「相手を言い負か」そうとすることや「女性に対して謝れない」ことと結びつけて述べることもできる。しかしながら、「優越志向」と「権力志向」と「所有志向」とは、ある程度意味が異なっている。たとえば、伊藤公雄氏は、「権力志向」を、「家庭」における権力として説明し、「所有志向」を、「女性」に対する所有として説明している(『〈男らしさ〉のゆくえ』p.112-114)。

そうした「権力志向」や「所有志向」についても正面から見つめることは、田中氏が説いている男性性の変革にとっても必要ではないだろうか。

なぜなら、田中氏が指摘する、男性が仕事中心の生活をして「他人と『競争』して勝つ」志向は、女性に対する「所有」ないし「支配」志向とも関連しているからである。

すなわち、男性が仕事において「競争」して勝とうとするのは、もちろん自分の収入や名誉のためであるが、それだけでなく、往々にして、それによって女性を「所有」したり、その女性を養うことによって「支配」したりする志向も含まれている。

それゆえ、男性が仕事中心の生活をすることや「『競争』して勝つ」志向から完全に脱却するためには、女性に対する所有・支配志向からも脱却することが必要である。

もちろん社会における男女差別は、個人的な志向によってだけでなく、社会的な制度によって支えられているので、社会的な男女差別についても認識し、なくす努力が必要になる。

田中氏がその後出版した『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(岩波書店 2019)では、「仕事」から排除された女性の状況の問題にも触れているが、それに加えて、「競争」に参加した女性が被るさまざまなハンディキャップの問題にも視野を広げて「競争」の問題を論じる必要も出てくるだろう。

3-2-2 ジェンダー関係変革に対する男性の動機の強化

江原氏が、男性性の変革には「より強い動機付けが必要だ」と述べている点も、私は重要だと思う。

江原氏は、田中氏が男性性を変えることを主張する主な理由として、「社会的公正や平等などの価値観」を挙げていないことを問題にしている。たしかに、そうした価値観は動機として重要だ。そのほか、男性が女性の立場に身を置いて考えること、すなわち「共感」という動機も有効だろう。

ダイアン・グッドマン(Diane Goodman)は、Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups, Routledge, 2011(出口真紀子監訳、田辺希久子訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』上智大学出版 2017)で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、(1)被抑圧集団の人々への「共感」、(2)自分の信念などの「道徳的原則、宗教的価値」、(3)被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分けている(p.121-156[日本語訳p.180-232])。

江原氏が言う「社会的公正や平等などの価値観」は、グッドマンの分類では、(2)の「道徳的原則、宗教的価値」に当たる。それに対して、田中氏の主張は、主に(3)の「自己利益」からの主張だと言える(注3)

グッドマンは、(1)~(3)は、「それぞれが単独で社会的公正の支持を促す力を持っている。しかし多くの場合、それらは互いに関連性を持ち、複合的にはたらきかけることでより強く行動を促すことができる」(同上p.131[日本語訳p.195])と指摘している。

とすれば、(3)の田中氏の観点に、(1)や(2)の観点をもっと加味することが重要だと言える。すなわち、自分自身のためだけでなく、女性のため、社会的公正のためでもあることを認識することは、男性性の変革にとってより強い動機を持つことにつながるのではないか。

3-3 労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯

3-3-1 労働問題におけるフェミニズム視点明確化の必要性

具体的な課題のレベルで言えば、長時間労働の解消や「生活態度としての能力」評価の是正などは、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等にとってプラスではあるが、十分条件ではない。この点は、やはりフェミニズムの視点を入れることによって、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等を実現する必要がある(注4)

田中氏が論じているような男性性の問題点は、男性が「妻子を養う」(p.66)役割と不可分である。とすれば、そうした男性性の問題点を完全に消滅させるためにも、家庭での性別分業や職場の性差別を完全に消滅させて、男女が共に自立し連帯した社会を実現する必要がある。その意味で、フェミニズムの視点を明確化することは男性解放にとっても必要だと言える。

3-3-2 フェミニズムとの連帯によって、男性解放の展望の現実性を高める

江原氏は、田中氏の主張を批判して、男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」ことの方が、「ずっとわかりやすい」と述べていた。

先述のように、「男性の雇用をもと通り」にしても、田中氏が主張していることは、ほとんど実現できない。また、現実的に見ても、かつての年功賃金のようなものを復活させる展望はないだろう。ホックシールドが描写しているアメリカの右派も、日本の右派も、実際には労働者の生活や権利を守るために貢献しておらず、公務員やマイノリティを攻撃しているだけである。

とはいえ、「わかりやすさ」という点は重要だろう。なぜなら、男性の生き方を変えられる社会的展望をわかりやすく示すことができるか否かは、男性が変革への志向が持てるか否かに関わってくるからだ。

今日、それを示すことは容易でないが、フェミニズム運動との連帯は、展望を切り開く上でプラスになるだろう。その意味でも、フェミニズムへの偏見(江原氏の言う「特権意識」を含めて)を克服することが重要だと思う。以下、この点を、正規雇用と非正規雇用に分けて、田中氏の主張に即してまとめてみる。

3-3-2-1 正規雇用に関して

2-2の男性の働き方の問題に関して言えば、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、職場での女性に対する排除・差別をも生み出しているからこそ、女性運動もそれらに対して批判してきたことを認識することが重要ではないだろうか。

たとえば、女性労働運動は、男女雇用機会均等法の制定や改正の際に、「男女共通の労働時間規制」を求めて闘った。また、賃金の女性差別をなくす運動は、競争をあおるような能力主義や恣意的な人事考課ではなく、「同一価値労働同一賃金原則」を主張して闘ってきた。そうした女性解放運動を支援したり、共闘したりしていくことが重要なのではないか。

3-3-2-2 非正規雇用に関して

『男がつらいよ』は、非正規雇用の男性に関しては、2ページしか費やしておらず、「イメージと現実のギャップに苦しむ男性たちを減らすためには、現代の経済状況に適応した新しい男性の生き方を創造するのが近道なのです」(p.103)としか言っていない。「イメージ」という漠然とした語を、田中氏が「はじめに」以外で使っているのはこの個所だけであり、この個所に関しては、江原氏の指摘が当たっているように思う。

田中氏が具体的なことを語れない理由は、田中氏が本書について、「社会のあり方や他人の考えを変えるのは難しいですが、自分の価値観や行動は自らの意志で修正できるはずです。やれることからやっていこうというのが、この本の考え方になります」(p.16)と述べていることと関係しているように思う。正規雇用の場合は、若干ながらも個人で働き方を選べる面があるのに対して、非正規雇用の場合は、低賃金などが問題だが、この点は労働者個人には決定権がまるでないからだ。

本書についての田中氏の上の考え方は理解できるが、本書の中でなくとも、どこかで社会運動的な観点にもつなげていく必要があるのではないだろうか。

ただし、田中氏は、本書の最後で、「競争の結果として生まれる格差が、誰もが納得できる範囲に収まっているかどうかについて考えてみてほしいと思います」(p.216)と述べており、この点は、均等待遇や同一価値労働同一賃金原則の話につなげていくことができるだろう。

非正規労働に関しては、丸子警報器事件以来、女性運動が前進を勝ち取ってきた面が大きいので、そうした面から、フェミニズムと結びつくことが必要になってくると思う。

おわりに――女性抑圧や男性性の否定的側面と社会全体の抑圧との関連に注目する観点も必要

以上の3で述べたことは、べつに目新しい話ではない。

しかし、以上のように田中氏の考察の到達点をきちんと踏まえて議論をすすめたことによって、江原氏の批判と田中氏の主張がよりかみ合ったものになり、議論がより具体的なものになり、展望がより明確になったとは言えるのではないだろうか?

私自身、今回の文章をまとめてみて、自分なりに田中氏の考察をフェミニズムに結びつけて理解することもできたし、逆にフェミニズムの立場から田中氏の考察を受け止めることもできたようにも思う。

ただ、フェミニズムと接続することは、そのぶん自分の思想や行動を問い直すしんどさを多く抱え込むということでもある。

それを乗り越えるためには、私は、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」という大きな視点を持つことが一助になるのではないかと思っている。男性性という点から言えば、男性学では「男らしさ」の類が男性にも抑圧になっていることが論じられるが、私は、「男らしさ」が、より広く、よりさまざまな社会全体の抑圧と関係している面を見ることが重要だと思っている。

すなわち、男性の女性支配が、男性にも「コスト」を課しているというだけでなく、男性にも女性にも「社会全体の抑圧」という巨大な「コスト」を課していることを認識することで、男性が被る「コスト」もより大きなものとして捉えることができるのではないか。そのことは、男性が自らの「特権」を見直したり、女性差別に反対したりする動機をより強いものにすることなると思う。

ただし、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」と言うだけでは抽象的である。それをより具体化するための一つの方法として、男性学や男性性研究で論じられてきた問題を学び、深めることは重要だと思う。そのこともあって、今回の文章を書かせていただいた次第である。

[2019年10月7日追記]文章全体の趣旨を変えない範囲で、少し文を修正させていただきました。

(注1)(この点については、twitterで「家来」さんも「フェミニスト叩きをする論者が、実際に田中俊之の論を誤読あるいは悪用したケースはあるのだろうか?」と疑問を呈している(2019年8月25日23:25)(https://twitter.com/kerai14/status/1165872850328141824)。「家来」さんは、その後さらに「自分は“懸念”のレベルであったとしても、あまり江原さんの論に説得力を感じないのですが(……)そういう“悪用”をもしも見かけたら、それはきちんと批判したいですね。」と述べている(2019年8月26日午後4:47)(https://twitter.com/kerai14/status/1165893491563491328)。この点もおっしゃるとおりである。たしかに誤用の可能性はあるとしても、重要なのは、田中氏の論は、そうした誤用が誤用であることを指摘できるような論理なっているだということだと私は思う。

(注2)2006年に、メンズセンターのニューズレター『メンズネットワーク』79号で、大山治彦氏が以下のように述べている。
元々このメンズリブになる時っていうのは(……)ある程度フェミニズムや女性学を勉強していた人達、あるいは女性グループでそういったジェンダーの訓練を受けた男達が中心でした。だからそこのところが非常に前提としてあったのですよね。その加害者性であるとか社会と構造を関わらせてみるっていうのは、ある種当然と言うか(……)これが裾野が広がる中で、そういったフェミニズムとかジェンダーの勉強をしないまんまというか、出会えないまま男性のグループに直に来る人が増えてきたっていうところに、少し問題という部分もあるのかなというふうに思います。しかし私は実を言うと、ちょっと極端なものの言い方になりますが、全員が全員わからなくても、わからなくてもいいってわけじゃないんですが、それだけの興味を持つことは難しいだろうと、残念ながら思っています。だけどせめてグループの中核になっている人とか、自分の問題としてこのメンズリブを考えたいと思っている人には、それが届いたらいいなというふうに思うんですね。(p.28)
また、今年の日本女性学会の『学会ニュース』第146号(2019年5月)には、以下のようにある。
ジェンダー差別の問題には反応が悪い学生たちが、「男も苦しいんだ」というタイプの男性学の議論だけをつまみ食いしてくる。
上の2つの文は、いずれも、男性学やメンズリブを学ぶことが、自動的にはフェミニズムへの理解に結びつかないことを問題にしている。

(注3)田中氏は、第3章では、(1)(2)の観点にも言及しているが(たとえば、「女性の立場から考える」[p.133]、「性の二重基準」は「女性差別」[p.131]など)、第3章も、全体としては、たとえば「女性を性的な魅力」だけで評価しないことは「自分がいい相手に巡り合うためにも」必要だ(p.127)というふうに、男性自身のために書かれている(そのこと自体は重要だが)。

(注4)田中氏も「男性が家事・育児に責任を持たなければなりません」(p.209)と述べているが、その理由は「フルタイムで働く女性の増加に対応するために」という位置づけにとどまっている。

日本女性学会大会シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想

日本女性学会『学会ニュース』第147号(2019年9月)(PDF)に、2019年度日本女性学会大会のシンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想が掲載されましたので、このブログにも掲載させていただきます。上のPDFには、他の方の感想やパネル報告・ワークショップ報告も掲載されています。


シンポジウムについての男性としての私の感想

遠山日出也

シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」で、江原由美子さんは、近年の男性学について、ポジショナリティ論の見地から批判する一方(私は、この批判は、田中俊之さんらの主張を正確に理解した上での批判なのか疑問に感じた面があるが[*])、グローバル化の下での男性労働者の困難を反映している面もあるとし、男性性と現在の右傾化や排外主義との関わりを解明することに今後の男性学の可能性があるとされた。すぎむらなおみさんは、学校の管理教育と男性性との結びつきを指摘し、男性教員でも女性を見下さずに「(「男は」でなく)男もつらいよ」と嘆く人たちとの連帯を展望なさった。

近年の男性学に関する論争では、男性の「特権」とその「コスト」の関係が論じられたが、上の2報告は、男性性が右傾化、排外主義、管理教育などと結びついて、男にも女にも巨大な「コスト」を課していることを示唆している。私の場合、「ある社会における女性解放の程度はその社会の一般的解放の自然的尺度である」という認識がフェミニズムに関わる力になってきたので、2報告が挙げたような具体的問題に即して、男性性の克服と社会の全般的解放との関係についても解明していきたい。

田房永子さんは、エロ本や週刊誌の世界では、女性の人間としての行動を「エロ」に還元する記事が生産されていることを語られた。そうした記事は女性に実害をもたらすだけに、どうしたら変えられるのかを考えさせられた。

平山亮さんは、「覇権的男性性」概念とは、「男とはこういうものだ」という認識が性差別を正当化するのを批判するための概念であると指摘された。私も、男性には、外的要因ばかりに注目して個人でできることを怠る傾向はあると思うので、この指摘は重要だと感じた。平山さんはまた、男性学が、白人性研究などのマジョリティ研究を参照することを提唱された。伊藤公雄さんも同様の提唱をしており、私も同感だが、私はその際にも、女性学から学んだ「自らの解放のため」という視点は、自分を含めた社会を変革する力になると考える。

[*]この点に関しては、その後、江原由美子さんが「フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか」という一文を発表されたので、私は、「江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題の提起を」という文章を書かせていただいた。(2019年10月2日追記)

プロフィール

HN:
遠山日出也
自己紹介:
これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」の中で取り上げてきた日本の社会や運動についての記事をここに書くようにしました。ご連絡は、tooyama9011あっとまーくyahoo.co.jpにお願いいたします。

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