社会の片隅から

これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。

なぜ森田成也氏は買春の処罰を主張して、主婦を扶養する男性の処罰は主張しないのか?

遠山日出也
この2月に刊行された、小浜正子・板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(京都大学学術出版会)の第3章として、私は「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動――2000年以降、両者の連帯に至るまで」という一文を書いた。

日本のフェミニズムの中でも、セックスワークについては激しい議論が交わされている。そこで既に議論されていることと重なる部分も多いが、以下では、今回の拙文や他の中国の売買春についての研究の中から、私がこの問題について考えたことを記す。

拙文の中では、2001年に李銀河(中国社会科学院研究員)がセックスワークの「非犯罪化」を主張したことを述べている(p.89-90)。その第一の理由は、「セックスワークが犯罪とみなされることは、警察の腐敗(遠山註:警察が取締りの権限を利用してセックスワーカーに金品などを強要するなど)や犯罪組織の介入といった多くのマイナスの結果を招」き「性病防止にも不利である」ことだが、第二の理由は、「売春」と「扶養関係にある婚姻中の男女関係」とは明確には分けられず、妓女、妾、収入のない妻という「三つの状況は、量が異なるだけで、質に違いがない」以上、セックスワークを犯罪だとする理由はない、ということだった。

しばらく以前になるが、菊地夏野氏が「『夜の街』連呼でやり玉に コロナ禍で再燃する『セックスワーク』への差別意識」(文春オンライン2020年8月3日)を発表したのに対し、森田成也氏が「セックスワーカーを差別しているのは誰か――菊地夏野氏への反論――」(『戦争と性』第34号[2021年])を書き、それを加筆修正して、Academiaに掲載した(「セックスワーカー」を差別しているのは誰か)。中国の場合は、売買春とも犯罪として処罰されている点は日本と異なるが、両氏の議論の論点には、李銀河の言う問題とも関係しているものがあるように思う。

女性差別や女性の貧困が背景にあって、金銭と引き換えにセックスを提供してもらうのは、買春だけでなく、男性による主婦の扶養も同じなのでは?

菊地氏は「性サービスを提供する女性が貧困であろうと、またサービスを買う男性が女性差別意識を持っていようと、それを理由にその女性の意志に基づいたセックスワークを否定できるのか? 問題なのは背景の貧困や差別であり、セックスワークの行為自体ではないはずだ」と主張した。それに対して、森田氏は、「買う男性の『女性差別意識』以上に、その行為そのものが女性差別と性的搾取の実践なのである」と主張した。森田氏がそう主張する理由は、「『背景の貧困や差別』に問題があるのなら、まさにその貧困や差別につけ込んで、本当はしたくもない相手と性行為をせざるをえなくしているのだから、それはまさにセクシュアルハラスメントないし性暴力として認識されるべき行為である」というものである。

しかし、だとしたら、男性が収入のない妻(専業主婦)やお妾さんを扶養するという行為はどうなるのだろうか? 女性が主婦や妾になる(ならざるをえない)「背景」には、「女性差別」や女性の「貧困」があることは明らかだろう。男性が主婦や妾を持つことも、森田氏の言い方に従えば、客観的には「まさにその貧困や差別につけ込んで」いる行為だと言える。女性が不特定ではなく特定の男性だけの相手をすれば、妾であり、結婚して家事育児もすれば、主婦になるという違いがあるだけである。

もちろん男性が主婦を扶養することには、それだけではない側面はあるし、主観的には「つけ込んで」いる意識はない人が多いだろう。しかし、それは買春でも同じことである。もし公然と貧困につけ込むような発言をすれば、買春の場合でも岡村隆史氏のように非難されるし、結婚でも、公然とその女性の貧困につけ込んで結婚を求める男は、卑劣な男と見なされるだろう(ドラマだと悪役である)。しかし、現実の問題としても、客観的に言って、年収の高い男性ほど結婚しやすいのである。これは、男性が妻を得ることができる一つの背景には女性差別や貧困があることを示しており、その点は買春と同じだと言えよう。

さらに、森田氏は次のようにも言う。「貧困や差別を利用して相手の性(セクシュアリティ)を利用することが制度として、職業として存在することは、差別と人権侵害を職業にし、社会的制度にしていることであるから、会社や学校の中で部分的に起こる場合よりもいっそう深刻であり、いっそう差別的なはずである」。

しかし、男性が女性の「貧困や差別につけ込んで」主婦を持つことを制度的に支えているのが、ほかならぬ婚姻制度である。なぜなら、婚姻制度においては、夫婦間には扶養義務がある一方で、正当な理由なくセックスを拒否すれば離婚理由になるからだ。これは、多くの場合において、夫の妻に対する扶養と夫に対する妻のセックスの義務とを社会的制度にしたものだと言いうるだろう。もちろん今日では妻も収入を得ている場合が多いが、もし妻の収入が夫の収入より低いにもかかわらず、衣食住を共にし、家計を共にしているとしたら、夫が妻を扶養し、その引き換えに妻が夫にセックスを提供している面があることは否定できない。

森田氏が唱える「新廃止主義」は、売春は処罰しないが、買春と業者を処罰することによって、性産業を廃止するというものである。しかし、上で述べたように、もし森田氏の上記の議論が正しいとしたら、客観的には女性差別や女性の貧困につけ込むことによって、女性を扶養することと引き換えにセックスをしてもらう男性も処罰しなければならない。また、それを社会的制度として支えている婚姻制度も直ちに廃止することを主張しなければおかしいし、それを産業にしているブライダル産業も禁止しなければならない。

もし妻を扶養する夫を処罰するとしたら、どうなるだろうか? たまたまその妻が夫からDVを受けている場合などは、妻の状況が改善される場合がないとは言えない(たとえば夫が妻を離婚したり、妻の経済的自立をサポートしたりせざるをえなくなって)。それは、たまたまセックスワーカーが不当な暴力や拘束を受けている場合ならば、「新廃止主義」によって性産業をまるごと法律で禁止することが、その女性にとっては一定の解放になる場合もあるのと同じことである(*)。しかし、多くの場合、妻を扶養する夫を処罰し、婚姻制度を今すぐ廃止することは、女性が男性と結婚する場合の選択の自由を奪うだけでなく、場合によっては生活の手段(それが弊害を伴うものであるとしても)を奪うことになり、むしろ女性の状況を悪化させる場合が多いだろう。これは、買春や性産業を今すぐ法律の力によって禁止することが、女性の選択の自由や女性が望む生活の手段を奪うことになる場合が多いのと同じことである。

(*)この点は、中華人民共和国建国(1949年)初期に妓院(売春施設)を閉鎖したときも同じだった。もちろんこの時代は、売春女性に対する強制と暴力が今より多かった時代であり、建国以前から妓院にいて人身拘束や虐待・脅迫などの経験があった女性たちは、中国共産党に施設に収容されることによって自分が解放されたと思ったという。しかし、建国後、とくに拘束もされずに売春を始めた女性は、家から売春宿に通っていて、虐待や脅迫もほとんどなかったので、施設に収容されたことに感謝したりはしはなかったという(林紅『中国における買売春根絶政策:一九五〇年代の福州市の実施過程を中心に』明石書店、2007年、p.219-221, 226, 234-235, 254)。

また、業者についても、営業自体を処罰することは良いとは言い難い。艾暁明(当時、中山大学中文系教授)は、2014年、「性の市場化・産業化」について、「個人で街頭に立つよりも、金をゆすり取られたり、巻き上げられたりする危険は少ない」という点では「一定程度、その権益の保護に有利である」と主張した(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。もっとも、この点については、たとえ市場化されていても、日本で言われているように、店舗型の性風俗が規制されて、デリバリーヘルス中心になるとセックスワーカーが危険にさらされることになるが(*)、いずれにしても個人で孤立した形で営業することは、危険性が高いことはたしかである。業者についても、労働法制や労働運動の監視下に置くのがよいだろう。

(*)要友紀子氏は「風営法改正(1999年)によってデリヘル(※デリバリーヘルスの略。客のいるホテルや自宅で性的サービスを提供する風俗)が合法化されメジャー化した一方で、店舗型風俗店の新規出店ができなくなったため、ほとんどのセックスワーカーたちは、客と二人きりのホテルか客の自宅という密室で働かざるを得なくなってしまいました」と語っている(「“法的フレーム、社会的フレームによるセックスワークの「不安全」をなくし、労働環境を良くしていきたい”D×P公開型勉強会レポート」)。

夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応のアンバランスさは、実質的にはセックスワーカーに対する差別にならないか?

以上から見て、森田氏の主張は、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応がきわめてアンバランスだと言える。

森田氏は、新廃止主義は、セックスワーカーの人権を侵害している買春者や業者を処罰するのだから、セックスワーカー差別ではまったくないと主張している。たしかに、昔のように売春女性を処罰するようなやり方と比べれば、そうだと思う。

しかし、中国でも、黄盈盈(中国人民大学副教授)は、「売春を罰せずに、買春を罰する」やり方に対して、「もし私が物を売っているときに、あなたが客を追い払ったら、私の権益を侵害していないか?」と問うている(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。主婦の場合で考えると、たとえ主婦自身は処罰しなくても、主婦を養う夫を処罰したら、それがたとえ罰金刑だとしても、それはかなりの程度、実質的には主婦のいる家庭に対する罰金になり、「主婦差別」になるのではないだろうか? それと同じ意味でも、新廃止主義は、「セックスワーカー差別」だと言いうるのではないだろうか?

森田氏は、自らの議論が「性道徳にもとづく反対論」ではないことを強調している。たしかに一見そう見えるのだが、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と売買春に対する対応のアンバランスさを見ると、森田氏の主張は、婚姻内のセックスであるか否かを評価の基準にしているので、そうした性道徳を前提にすることになっていると思う。

夫による妻の扶養や婚姻制度と売買春との共通性を否定するのは無理ではないか?

私も、女性が夫に扶養されたり売春したりしなければ生きていけない状況は、女性差別や女性の貧困をなくすことを通じて、なくさなければならないと思う。また、婚姻制度もなくさなければならないと思う。ただし、それは、誰もが自立できる、個人単位の賃金と社会保障の制度を構築することや、売春や婚姻から抜け出すことを阻む暴力をなくすことを通じてであろう。ただし、社会から差別や貧困がなくなっても、一時的に扶養・被扶養の関係になったり、そのために私的契約を結んだり、性の金銭的取引をしたりする人はいる可能性は十分あるし、そのためのグループや業者も存在するかもしれないが――こうした点についての未来予想は難しい――べつにそのことを法律で禁止する必要はないように思う。

もちろん男性が、買春について、男女の経済的格差や性規範の二重基準、セックスワーカーの置かれた状況などの観点から考えたり、何らかの行動をしたりすることは有意義だと思う。ただ、買春する男性を処罰することは、発展途上国の劣悪な労働条件の下で製造されたユニクロの製品を買う消費者を処罰するのと同じような無理があると思うのである。

売買春と婚姻制度との類似性や両者の関係については、もちろん日本でもすでに多くの人々が指摘している。ほかならぬ菊地氏が売春女性と主婦の共通性と分断について詳しく論じているし、最近も、青山薫氏、要友紀子氏、岡田実穂氏が触れている。
・菊地夏野「フェミニズムと『売買春』論の再検討: 『自由意志対強制』の神話(PDF)」『京都社会学年報』9号(2001年)、とくにp.141-145。
・青山薫「セックスワーカーの人権・自由・安全――グローバルな連帯は可能か」辻村みよ子編『(ジェンダー社会科学の可能性 第1巻)かけがえのない個から――人権と家族をめぐる法と制度』岩波書店 2011年、p.150-151。
・要友紀子「誰が問いを立てるのか」SWASH編『セックスワーク・スタディーズ』日本評論社、2018年、p.35。
・岡田実穂「合意とは何か」同上、p.185。

それゆえ、この点は、すでに学界でも議論になっているようだ。たとえば、新廃止主義の立場に立つ中里見博氏によると、2018年のジェンダー法学会16回学術大会で、同氏に対して、「性売買に関する不平等説=新廃止主義の議論は、性関係の典型的な契約である婚姻についても類推され、婚姻制度廃止論へつながるか」という質問が出されたのに対して、同氏は、「性売買廃止の議論が直接あらゆる婚姻制度廃止につながるとは考えていない。なぜなら、性売買は一時的な性関係を基礎にしているのに対して、婚姻は『性の絆』であると同時に、相互的な『ケアの絆』としての可能性を持っているからである。ただし家父長主義の強い婚姻制度が否定されるだけでなく、現在の婚姻制度に種々の改革が不可欠だと考えると回答した」とのことである(中里見博「コメントおよびフロアとの討論」『ジェンダーと法』16[2019年]p.65)。

たしかに、性売買と婚姻制度との間には異質性も存在しているだろう。しかし、第一に、中里見氏の回答も、その共通性自体を否定できているわけではない。とすれば、「買春は処罰するが、主婦を扶養することは無罪放免」というような対極的な措置までは正当化できないのではないか。第二に、一時的な性関係ならば深刻な問題にならなくても、同居し続けているからこそ深刻になる継続的な暴力・虐待のような問題もあるのだから、一概に婚姻関係のほうが問題が少ないとも言い難いのではないか。第三に、たしかに中里見氏が言うように、婚姻の中にも「相互的な『ケアの絆』としての可能性」は孕まれているだろうが、その可能性が現実のものとなるのは、賃金や社会保障の個人単位化や社会的サービスの充実などによって、誰もが経済的・社会的に、かつ生活の面でも自立できる条件が保障され、男女が対等な関係になったときであろうし、そのときには婚姻制度は不要になるのではないか。

森田氏は他にもさまざまな論点を出しており、私が不勉強なために、判断できない点もあるが、以上の点については、私はこのように考える。

なお、拙稿は、中国でのセックスワーカー運動のことや、セックスワーク論に批判的な中国の人々の見解なども掲載しているので、よろしければご参照ください。

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

トラックバック

プロフィール

HN:
遠山日出也
自己紹介:
これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」の中で取り上げてきた日本の社会や運動についての記事をここに書くようにしました。ご連絡は、tooyama9011あっとまーくyahoo.co.jpにお願いいたします。

P R