日本女性学会『学会ニュース』第147号(2019年9月)(
PDF)に、2019年度日本女性学会大会のシンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想が掲載されましたので、このブログにも掲載させていただきます。上のPDFには、他の方の感想やパネル報告・ワークショップ報告も掲載されています。
シンポジウムについての男性としての私の感想遠山日出也シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」で、江原由美子さんは、近年の男性学について、ポジショナリティ論の見地から批判する一方(私は、この批判は、田中俊之さんらの主張を正確に理解した上での批判なのか疑問に感じた面があるが[*])、グローバル化の下での男性労働者の困難を反映している面もあるとし、男性性と現在の右傾化や排外主義との関わりを解明することに今後の男性学の可能性があるとされた。すぎむらなおみさんは、学校の管理教育と男性性との結びつきを指摘し、男性教員でも女性を見下さずに「(「男は」でなく)男もつらいよ」と嘆く人たちとの連帯を展望なさった。
近年の男性学に関する論争では、男性の「特権」とその「コスト」の関係が論じられたが、上の2報告は、男性性が右傾化、排外主義、管理教育などと結びついて、男にも女にも巨大な「コスト」を課していることを示唆している。私の場合、「ある社会における女性解放の程度はその社会の一般的解放の自然的尺度である」という認識がフェミニズムに関わる力になってきたので、2報告が挙げたような具体的問題に即して、男性性の克服と社会の全般的解放との関係についても解明していきたい。
田房永子さんは、エロ本や週刊誌の世界では、女性の人間としての行動を「エロ」に還元する記事が生産されていることを語られた。そうした記事は女性に実害をもたらすだけに、どうしたら変えられるのかを考えさせられた。
平山亮さんは、「覇権的男性性」概念とは、「男とはこういうものだ」という認識が性差別を正当化するのを批判するための概念であると指摘された。私も、男性には、外的要因ばかりに注目して個人でできることを怠る傾向はあると思うので、この指摘は重要だと感じた。平山さんはまた、男性学が、白人性研究などのマジョリティ研究を参照することを提唱された。伊藤公雄さんも同様の提唱をしており、私も同感だが、私はその際にも、女性学から学んだ「自らの解放のため」という視点は、自分を含めた社会を変革する力になると考える。
[*]この点に関しては、その後、江原由美子さんが「
フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか」という一文を発表されたので、私は、「
江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題の提起を」という文章を書かせていただいた。(2019年10月2日追記)
http://genchi.syoyu.net/category-7/1.html日本女性学会大会シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想