社会の片隅から

これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。

なぜ森田成也氏は買春の処罰を主張して、主婦を扶養する男性の処罰は主張しないのか?

遠山日出也
この2月に刊行された、小浜正子・板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ:規範と逸脱』(京都大学学術出版会)の第3章として、私は「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動――2000年以降、両者の連帯に至るまで」という一文を書いた。

日本のフェミニズムの中でも、セックスワークについては激しい議論が交わされている。そこで既に議論されていることと重なる部分も多いが、以下では、今回の拙文や他の中国の売買春についての研究の中から、私がこの問題について考えたことを記す。

拙文の中では、2001年に李銀河(中国社会科学院研究員)がセックスワークの「非犯罪化」を主張したことを述べている(p.89-90)。その第一の理由は、「セックスワークが犯罪とみなされることは、警察の腐敗(遠山註:警察が取締りの権限を利用してセックスワーカーに金品などを強要するなど)や犯罪組織の介入といった多くのマイナスの結果を招」き「性病防止にも不利である」ことだが、第二の理由は、「売春」と「扶養関係にある婚姻中の男女関係」とは明確には分けられず、妓女、妾、収入のない妻という「三つの状況は、量が異なるだけで、質に違いがない」以上、セックスワークを犯罪だとする理由はない、ということだった。

しばらく以前になるが、菊地夏野氏が「『夜の街』連呼でやり玉に コロナ禍で再燃する『セックスワーク』への差別意識」(文春オンライン2020年8月3日)を発表したのに対し、森田成也氏が「セックスワーカーを差別しているのは誰か――菊地夏野氏への反論――」(『戦争と性』第34号[2021年])を書き、それを加筆修正して、Academiaに掲載した(「セックスワーカー」を差別しているのは誰か)。中国の場合は、売買春とも犯罪として処罰されている点は日本と異なるが、両氏の議論の論点には、李銀河の言う問題とも関係しているものがあるように思う。

女性差別や女性の貧困が背景にあって、金銭と引き換えにセックスを提供してもらうのは、買春だけでなく、男性による主婦の扶養も同じなのでは?

菊地氏は「性サービスを提供する女性が貧困であろうと、またサービスを買う男性が女性差別意識を持っていようと、それを理由にその女性の意志に基づいたセックスワークを否定できるのか? 問題なのは背景の貧困や差別であり、セックスワークの行為自体ではないはずだ」と主張した。それに対して、森田氏は、「買う男性の『女性差別意識』以上に、その行為そのものが女性差別と性的搾取の実践なのである」と主張した。森田氏がそう主張する理由は、「『背景の貧困や差別』に問題があるのなら、まさにその貧困や差別につけ込んで、本当はしたくもない相手と性行為をせざるをえなくしているのだから、それはまさにセクシュアルハラスメントないし性暴力として認識されるべき行為である」というものである。

しかし、だとしたら、男性が収入のない妻(専業主婦)やお妾さんを扶養するという行為はどうなるのだろうか? 女性が主婦や妾になる(ならざるをえない)「背景」には、「女性差別」や女性の「貧困」があることは明らかだろう。男性が主婦や妾を持つことも、森田氏の言い方に従えば、客観的には「まさにその貧困や差別につけ込んで」いる行為だと言える。女性が不特定ではなく特定の男性だけの相手をすれば、妾であり、結婚して家事育児もすれば、主婦になるという違いがあるだけである。

もちろん男性が主婦を扶養することには、それだけではない側面はあるし、主観的には「つけ込んで」いる意識はない人が多いだろう。しかし、それは買春でも同じことである。もし公然と貧困につけ込むような発言をすれば、買春の場合でも岡村隆史氏のように非難されるし、結婚でも、公然とその女性の貧困につけ込んで結婚を求める男は、卑劣な男と見なされるだろう(ドラマだと悪役である)。しかし、現実の問題としても、客観的に言って、年収の高い男性ほど結婚しやすいのである。これは、男性が妻を得ることができる一つの背景には女性差別や貧困があることを示しており、その点は買春と同じだと言えよう。

さらに、森田氏は次のようにも言う。「貧困や差別を利用して相手の性(セクシュアリティ)を利用することが制度として、職業として存在することは、差別と人権侵害を職業にし、社会的制度にしていることであるから、会社や学校の中で部分的に起こる場合よりもいっそう深刻であり、いっそう差別的なはずである」。

しかし、男性が女性の「貧困や差別につけ込んで」主婦を持つことを制度的に支えているのが、ほかならぬ婚姻制度である。なぜなら、婚姻制度においては、夫婦間には扶養義務がある一方で、正当な理由なくセックスを拒否すれば離婚理由になるからだ。これは、多くの場合において、夫の妻に対する扶養と夫に対する妻のセックスの義務とを社会的制度にしたものだと言いうるだろう。もちろん今日では妻も収入を得ている場合が多いが、もし妻の収入が夫の収入より低いにもかかわらず、衣食住を共にし、家計を共にしているとしたら、夫が妻を扶養し、その引き換えに妻が夫にセックスを提供している面があることは否定できない。

森田氏が唱える「新廃止主義」は、売春は処罰しないが、買春と業者を処罰することによって、性産業を廃止するというものである。しかし、上で述べたように、もし森田氏の上記の議論が正しいとしたら、客観的には女性差別や女性の貧困につけ込むことによって、女性を扶養することと引き換えにセックスをしてもらう男性も処罰しなければならない。また、それを社会的制度として支えている婚姻制度も直ちに廃止することを主張しなければおかしいし、それを産業にしているブライダル産業も禁止しなければならない。

もし妻を扶養する夫を処罰するとしたら、どうなるだろうか? たまたまその妻が夫からDVを受けている場合などは、妻の状況が改善される場合がないとは言えない(たとえば夫が妻を離婚したり、妻の経済的自立をサポートしたりせざるをえなくなって)。それは、たまたまセックスワーカーが不当な暴力や拘束を受けている場合ならば、「新廃止主義」によって性産業をまるごと法律で禁止することが、その女性にとっては一定の解放になる場合もあるのと同じことである(*)。しかし、多くの場合、妻を扶養する夫を処罰し、婚姻制度を今すぐ廃止することは、女性が男性と結婚する場合の選択の自由を奪うだけでなく、場合によっては生活の手段(それが弊害を伴うものであるとしても)を奪うことになり、むしろ女性の状況を悪化させる場合が多いだろう。これは、買春や性産業を今すぐ法律の力によって禁止することが、女性の選択の自由や女性が望む生活の手段を奪うことになる場合が多いのと同じことである。

(*)この点は、中華人民共和国建国(1949年)初期に妓院(売春施設)を閉鎖したときも同じだった。もちろんこの時代は、売春女性に対する強制と暴力が今より多かった時代であり、建国以前から妓院にいて人身拘束や虐待・脅迫などの経験があった女性たちは、中国共産党に施設に収容されることによって自分が解放されたと思ったという。しかし、建国後、とくに拘束もされずに売春を始めた女性は、家から売春宿に通っていて、虐待や脅迫もほとんどなかったので、施設に収容されたことに感謝したりはしはなかったという(林紅『中国における買売春根絶政策:一九五〇年代の福州市の実施過程を中心に』明石書店、2007年、p.219-221, 226, 234-235, 254)。

また、業者についても、営業自体を処罰することは良いとは言い難い。艾暁明(当時、中山大学中文系教授)は、2014年、「性の市場化・産業化」について、「個人で街頭に立つよりも、金をゆすり取られたり、巻き上げられたりする危険は少ない」という点では「一定程度、その権益の保護に有利である」と主張した(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。もっとも、この点については、たとえ市場化されていても、日本で言われているように、店舗型の性風俗が規制されて、デリバリーヘルス中心になるとセックスワーカーが危険にさらされることになるが(*)、いずれにしても個人で孤立した形で営業することは、危険性が高いことはたしかである。業者についても、労働法制や労働運動の監視下に置くのがよいだろう。

(*)要友紀子氏は「風営法改正(1999年)によってデリヘル(※デリバリーヘルスの略。客のいるホテルや自宅で性的サービスを提供する風俗)が合法化されメジャー化した一方で、店舗型風俗店の新規出店ができなくなったため、ほとんどのセックスワーカーたちは、客と二人きりのホテルか客の自宅という密室で働かざるを得なくなってしまいました」と語っている(「“法的フレーム、社会的フレームによるセックスワークの「不安全」をなくし、労働環境を良くしていきたい”D×P公開型勉強会レポート」)。

夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応のアンバランスさは、実質的にはセックスワーカーに対する差別にならないか?

以上から見て、森田氏の主張は、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応がきわめてアンバランスだと言える。

森田氏は、新廃止主義は、セックスワーカーの人権を侵害している買春者や業者を処罰するのだから、セックスワーカー差別ではまったくないと主張している。たしかに、昔のように売春女性を処罰するようなやり方と比べれば、そうだと思う。

しかし、中国でも、黄盈盈(中国人民大学副教授)は、「売春を罰せずに、買春を罰する」やり方に対して、「もし私が物を売っているときに、あなたが客を追い払ったら、私の権益を侵害していないか?」と問うている(前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110)。主婦の場合で考えると、たとえ主婦自身は処罰しなくても、主婦を養う夫を処罰したら、それがたとえ罰金刑だとしても、それはかなりの程度、実質的には主婦のいる家庭に対する罰金になり、「主婦差別」になるのではないだろうか? それと同じ意味でも、新廃止主義は、「セックスワーカー差別」だと言いうるのではないだろうか?

森田氏は、自らの議論が「性道徳にもとづく反対論」ではないことを強調している。たしかに一見そう見えるのだが、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と売買春に対する対応のアンバランスさを見ると、森田氏の主張は、婚姻内のセックスであるか否かを評価の基準にしているので、そうした性道徳を前提にすることになっていると思う。

夫による妻の扶養や婚姻制度と売買春との共通性を否定するのは無理ではないか?

私も、女性が夫に扶養されたり売春したりしなければ生きていけない状況は、女性差別や女性の貧困をなくすことを通じて、なくさなければならないと思う。また、婚姻制度もなくさなければならないと思う。ただし、それは、誰もが自立できる、個人単位の賃金と社会保障の制度を構築することや、売春や婚姻から抜け出すことを阻む暴力をなくすことを通じてであろう。ただし、社会から差別や貧困がなくなっても、一時的に扶養・被扶養の関係になったり、そのために私的契約を結んだり、性の金銭的取引をしたりする人はいる可能性は十分あるし、そのためのグループや業者も存在するかもしれないが――こうした点についての未来予想は難しい――べつにそのことを法律で禁止する必要はないように思う。

もちろん男性が、買春について、男女の経済的格差や性規範の二重基準、セックスワーカーの置かれた状況などの観点から考えたり、何らかの行動をしたりすることは有意義だと思う。ただ、買春する男性を処罰することは、発展途上国の劣悪な労働条件の下で製造されたユニクロの製品を買う消費者を処罰するのと同じような無理があると思うのである。

売買春と婚姻制度との類似性や両者の関係については、もちろん日本でもすでに多くの人々が指摘している。ほかならぬ菊地氏が売春女性と主婦の共通性と分断について詳しく論じているし、最近も、青山薫氏、要友紀子氏、岡田実穂氏が触れている。
・菊地夏野「フェミニズムと『売買春』論の再検討: 『自由意志対強制』の神話(PDF)」『京都社会学年報』9号(2001年)、とくにp.141-145。
・青山薫「セックスワーカーの人権・自由・安全――グローバルな連帯は可能か」辻村みよ子編『(ジェンダー社会科学の可能性 第1巻)かけがえのない個から――人権と家族をめぐる法と制度』岩波書店 2011年、p.150-151。
・要友紀子「誰が問いを立てるのか」SWASH編『セックスワーク・スタディーズ』日本評論社、2018年、p.35。
・岡田実穂「合意とは何か」同上、p.185。

それゆえ、この点は、すでに学界でも議論になっているようだ。たとえば、新廃止主義の立場に立つ中里見博氏によると、2018年のジェンダー法学会16回学術大会で、同氏に対して、「性売買に関する不平等説=新廃止主義の議論は、性関係の典型的な契約である婚姻についても類推され、婚姻制度廃止論へつながるか」という質問が出されたのに対して、同氏は、「性売買廃止の議論が直接あらゆる婚姻制度廃止につながるとは考えていない。なぜなら、性売買は一時的な性関係を基礎にしているのに対して、婚姻は『性の絆』であると同時に、相互的な『ケアの絆』としての可能性を持っているからである。ただし家父長主義の強い婚姻制度が否定されるだけでなく、現在の婚姻制度に種々の改革が不可欠だと考えると回答した」とのことである(中里見博「コメントおよびフロアとの討論」『ジェンダーと法』16[2019年]p.65)。

たしかに、性売買と婚姻制度との間には異質性も存在しているだろう。しかし、第一に、中里見氏の回答も、その共通性自体を否定できているわけではない。とすれば、「買春は処罰するが、主婦を扶養することは無罪放免」というような対極的な措置までは正当化できないのではないか。第二に、一時的な性関係ならば深刻な問題にならなくても、同居し続けているからこそ深刻になる継続的な暴力・虐待のような問題もあるのだから、一概に婚姻関係のほうが問題が少ないとも言い難いのではないか。第三に、たしかに中里見氏が言うように、婚姻の中にも「相互的な『ケアの絆』としての可能性」は孕まれているだろうが、その可能性が現実のものとなるのは、賃金や社会保障の個人単位化や社会的サービスの充実などによって、誰もが経済的・社会的に、かつ生活の面でも自立できる条件が保障され、男女が対等な関係になったときであろうし、そのときには婚姻制度は不要になるのではないか。

森田氏は他にもさまざまな論点を出しており、私が不勉強なために、判断できない点もあるが、以上の点については、私はこのように考える。

なお、拙稿は、中国でのセックスワーカー運動のことや、セックスワーク論に批判的な中国の人々の見解なども掲載しているので、よろしければご参照ください。

フェミニズムに反する上野千鶴子さんの「脱原発」シングルイシュー選挙肯定

上野千鶴子さんが、WANサイトの「ちづこのブログ」(No.59)に「都知事選は脱原発都民投票だ」(2014年1月23日)という一文をお書きになった。

上の一文で、上野さんは以下の2点を論じ、それぞれ次のように答えていると言えるだろう。
(1)「脱原発」という「国政マター」を都知事選の重要な争点にすることの是非→(上野氏の答え)是
(2)「脱原発」という「シングルイシュー」で都知事選をすることの是非→(上野氏の答え)是

私も(1)については、その通りだと思う。しかし、(2)については疑問を感じ、すぐに以下の意見をWANサイトのコメント欄に記した。

上野さんの今回の文章については、今回の都知事選では「脱原発」という争点が重要だという点については、その通りだと思います。けれども、上野さんが「シングルイシュー」を強調しておられる点については、疑問に思います(自民党に対する反論としては、一定の意味はあるにしても)。選挙は各個人のそれぞれの生活や要求をもとにして闘うべきもので、貧困や福祉の問題はもちろんですし、なかなか選挙の争点にはなりにくいジェンダーやフェミニズムの問題はどの選挙でも積極的に争点として押し出していく必要があると思うのです。たとえば、「女性と人権全国ネットワーク」では、各候補に公開質問状を出しておられますね。
http://www.projectjapanwomen.net/#!tochijisen/c226c


実際、(1)の点に関する上野さんの主張は説得力があるが、(2)の点に関する上野さんの主張は説得力に乏しい。たとえば、上野さんは都市博中止という「シングルイシュー」を公約に掲げた青島都政の下でも都政は機能したと述べ、都の福祉行政の担当者のレベルは高いので知事には「へたに手をつけてもらわないほうがよいくらいだ」とおっしゃっている。しかし、かりに上野さんの青島都政認識が正しいとしても、今後、「シングルイシュー」で当選した知事がそれ以外の分野に「へたに手をつけ」ない保証はないし、いくら担当者のレベルが高くても予算がなければどうしようもないだろう。

私がショックだったのは、一貫してフェミニズムの立場に立ってこられた上野さんが「シングルイシュー」論を唱えたことだ。私は、どこかの男性知識人が原発への強い危機感から「シングルイシュー」論を展開するのに対して、「女の問題を後回しにするな」、「女の問題は些末な問題ではない」と発言なさることが、むしろ上野さんにふさわしいと思うのだが……。脱原発政策を大いに主張しつつも、そのためにも都政において性差別解消に取り組む意義も説くこともできる(たとえば原発が差別や家父長制に支えられていることを指摘して)と思うが、それもなさっていない。これではフェミニズムの視点を放棄なさっていると言わざるをえない。

また、上野さんが説かれてきた女性運動の戦争協力への反省などから考えても、朝鮮学校への補助金支給停止やヘイトスピーチ問題(上野さんの名誉のために言えば、これらの点については、上野さんもきちんと意見を表明してこられた)を争点として無視していいとも思えない。

上野さんの一文は、特定の候補者には触れていないが、今回の都知事選の情況から見ると、ひょっとしたら細川候補を推すつもりで書かれたのかもしれない。というのは、今回の選挙では、細川陣営が「脱原発」という「シングルイシュー」を強調してきたからである。しかし、かりに細川候補を推すことが正しいとしても(私が都民だったら彼には投票しないけれど)、「シングルイシュー」論が正しいということにはならない。なぜなら、第一に、誰に投票するにせよ、投票の際には、「シングルイシュー」でなく、女性/ジェンダー政策などについても検討するべきだからだ。もちろん、たとえある候補者の女性/ジェンダー政策が劣っていたとしても、他のさまざまな要素を勘案して、その候補者に一票を投じることはありうるが、そのことと「シングルイシュー」でよしとすることとは異なる。第二に、ジェンダーやフェミニズムを争点として押し出すことによって、各候補者に、その点に関してより良い公約をさせることができる場合があるからである。候補者への働きかけや公開質問状の送付・督促、候補者相互の論戦の過程などで、候補者が当初よりもきちんとした政策を出さざるを得なくなるケースはしばしばある。実際、宇都宮候補も、前回選挙に出馬を表明した当初の政策はジェンダー視点が乏しかったが、女性の方々の働きかけで改善されたりしている。

私には、上野さんが今回、「脱原発」シングルイシューを唱えておられる理由がわからない。ひょっとしたら、最近「シングルイシュー」が流行していることと関係があるのかもしれない。たしかに脱原発運動ならば、「脱原発」という一致点ですすめるべきだろう(ただし、より有効な運動にするためには、各自の独自の観点や相互の対立点についてもきちんと議論して運動を発展させることも必要だという点も見落としてはならないと思うが)。しかし、知事の権限はきわめて幅が広い以上、原理的に「シングルイシュー」とはなじまないと思う。また、今回の上野さんの「脱原発」の中にフェミニズム視点が入っていないのは、そもそも今の日本では、エコロジーの中にフェミニズムの視点を入れる必要性を説くような「エコロジカル・フェミニズム」(たとえば、私はメアリ・メラー『境界線を破る!』に感銘を受けた)があまり発展していないこととも関係があるのかもしれない。しかし、いずれにせよ、はっきりしたことはわからないが……。

上野さんは、私などとは比較にならないくらい優れたフェミニストであることは間違いない。しかし、今回の一文に関するかぎり、何度読んでも、フェミニズムを放棄しているように思えてならない。

(※)なお、上野さんは、文中で、「それに有権者はシングルイシューだけを選んでいるわけではない。身の回りを直撃するできごとから国政マターまで連続性を持った政策の組み合わせを選んでいる」ともおっしゃっているが、それなら「連続性を持った政策」のパッケージを提示するという話であり、シングルイシュー肯定とは矛盾している。また、ある問題(たとえば原発問題)に関する理解の深さが自動的に他の問題(たとえば女性問題)への理解を保障するものではない以上、ある程度、それぞれの争点に独自性があることも無視してはならないだろう。

中国電力男女差別裁判の広島高裁判決について

先日の中国電力男女賃金差別裁判の広島高裁判決についての宮地光子弁護士のお話をうかがうために、7月29日、大阪のワーキング・ウィメンズ・ネットワークのイベントに行ってきました。

中国電力男女賃金差別裁判は、2008年に同社社員の長迫忍(ながさこ・しのぶ)さんが起こした裁判です。

長迫さんは、広島高裁での控訴審が始まる前に、自らについて以下のように語っておられます(1)

私は1981年に中国電力に入社以来30年間、事務系の与えられた仕事をコツコツ、真面目に取り組んできましたが、未だに一般社員です。

同期入社の男性社員には重要業務が割り当てられたのに対し、私にはお茶くみやコピーなどといった諸務、雑務と男性社員のサポート業務しか割当てられませんでした。(…)男性は業務分担や事業所を3~5年位で変わり、幅広く経験させて育成されていましたが、私は同じ事業場で十数年間諸務・雑務を割り当てられていました。

入社12年目にして、やっと諸務から解放され、男性と全く同じ業務を行うようになりました。日々の業務をお客さまの立場に立って、迅速かつ的確に処理してきました。女性の深夜労働が認められるようになってからは、当直もして台風などの災害時の停電事故時にも男性同様に業務に携わってきました。

同期同学歴の一番はやく昇進した男性と私の職務等級の差は11段階も違いますし、男性の半分以上が管理職なのに対して、女性は2人しかいません。

私は、人事考課面接では管理職から「良くやってくれている」「期待している」と高評価をもらっても、一向に職務等級は上がりません。制度や業務内容は男性と同様とされても、昇進昇格については、男性との差は広がることはあっても縮まることはありません。

(……)

はるかに年下の後輩が主任・管理職へと昇進昇格するのに、どうして女性を育成し活用しないのかという疑問を明らかにしたいと裁判を決意、2008年5月に広島地方裁判所に提訴し、女性に対する賃金差別を主張して、地位の確認と損害賠償を求めました。

一審の広島地裁では審理が不十分なままに敗訴してしまったのですが、二審の広島高裁では、新たな弁護団が賃金データを提出させるなどして、賃金の男女差別を詳細に明らかにしました(2)。また、高裁での証人尋問では、2009年~2011年には長迫さんはチームトップの成績を上げたにもかかわらず、上司によるパワハラが始まり、同僚もそれに同調させられていたことなども語られました(3)

しかし、今年7月18日の広島高裁の判決も、簡単に言えば、「企業の人事考課制度は合理的だ。長迫さんに対する評価も正当であり、長迫さんが昇進できないのも、企業の裁量の範囲内のことだ」というもので、長迫さんは敗訴しました。

広島高裁判決も、男女の間には格差があること自体は認めました。判決は、「平成20年の時点で、主任1級以上の職能等級になっている者の割合は、男子従業員の90.4%に及び(女性従業員は25.7%)、(…)男性従業員の過半数が40歳までには主任1級に昇格しており(女性従業員で初めて主任1級に昇格した者の年齢は41歳)」というふうに述べています。

中国電力の人事考課制度は合理的?

判決が「中国電力の人事考課制度は合理的なものだ」と言っている理由は、以下のようなことにすぎません。
 ・「人事考課の基準等にも、男性と女性とで取り扱いを異にするような定めはない」(←公然とそんな規定を書くわけがない)
 ・「評定者に女性も登用している」(←女性が少しいるくらいでは、差別はなくならないのは常識では?)
 ・人事考課による評価は「被評定者にフィードバックされていて、評価の客観性を保つ仕組みが取られている」(←しかし、考課の結論が言い渡されるだけで、どのような事実からそのような結論になったかは、明らかにされない)。

層として明確に男女が分離していないから差別でない?

また、判決は、「同じ男性間にも、昇格の早い者、遅い者があり、賃金額にも差があるのであつて、男女間で、層として明確に分離していることまではうかがえない」と言っています。しかし、当日見せてもらった、判決中のグラフは、長迫さんと同期同学歴社員の2001年~2011年の11年間の賃金を示す以下のようなものでした。


(『ワーキング・ウィメンズ・ネットワークニュースレター』No.72[2013.7]p.3より)

このグラフを素直に読むと、私はむしろ、「女性の中には一握りの、男性と同等に扱われている人たちはおり、男性の中にも若干女性並みに扱われている人たちもいるけれども、全体として、男性と女性は層として分離している」ということが読み取れるように思います。また、「昇進の最も早いグループには女性は全く存在しない」のであり、そのこと自体「『層としての分離』と判断すべきものであった」(判決についての原告と弁護団の声明)と言えます。

単に男女で平均値に違いがあるというだけなら、会社がことさら差別しなくても、家事負担の違いとか意識の違いとかいう要因で男女差が生じている可能性もあるでしょう。しかし、このグラフは、どう見ても、男と女でまず区別したうえで、例外もあるという以上のものではないと思います(ごくごく最近、やっと少し例外が増えてきたようですが)。

以上を総じて言えば、この判決の論理では、「性中立的基準を定めて、少しでも女性を登用しておけば、差別は免罪される」ということになる(原告と弁護団の声明)と思います。

長迫さんは「正確・迅速な業務処理をおこない、仕事への信頼度は高い」にもかかわらず、昇進させない理由とは?

また、判決は、会社の職務評定によると、原告は「正確・迅速な業務処理をおこない、仕事への信頼度は高いと評価されている反面、毎年、自説に固執し、自分本位で他人の意見を聞かないと評価され、指導を要するものとされていた」から、原告を「昇進させなかったことは、被控訴人[=中国電力]の人事権の裁量の範囲内」のことだと述べています。

「正確・迅速な業務処理をおこない、仕事への信頼度は高い」のだったら、職業人としては十分でしょう。

しかも、「自説に固執し、自分本位」というのは、自分勝手だとかいうことではなく、長迫さんが管理職の方針に疑問を呈して本部によく意見を出していたことを指しているのだそうです。しかも、長迫さんの意見によって、本部は管理職の方針にストップをかけたり、条件を付けたりしていたそうですから、長迫さんの意見は独善的な意見でもなかったわけです。これでは、判決は、まさに、個人の意見を押し殺すような社員を会社が求めることを是認していることになります。これは怖い。

判決は、人事考課について会社の主張を丸呑みしていることといい、差別に対する捉え方といい、社員のあり方についての考え方といい、非常に時代錯誤で、「裁判所では、今でも、こんな考え方がまかり通っているのか!」と、呆れました。現実はこんなものなのかと。

宮地弁護士によると、人事考課の結果を口実にした男女差別については、なかなか勝てないのが実情だそうです。勝ってはいるけれども、その勝った裁判というのは、人事考課についての機密文書が暴露されて、その文書には「女性はC評価にする」とかはっきり書いてあったような場合だということです。

人事考課の結果だと言って差別をする、そういうやり方を突破することが、まさに現在の焦点だということのようです。

当日、原告の長迫さんは親御さんの介護のことで用事があって、来ておられませんでしたが、このおかしな判決に「NO」を言うために最高裁に上告なさるとのことです(4)。当日いらっしゃっていた支援者の方(中国電力の中で1人だけ公然と長迫さんを支援している方)も、最高裁がだめでも、選択議定書を批准させて……と語っていらっしゃいました。

(1)長迫忍「中国電力・男女賃金差別裁判」『ワーキング・ウィメンズ・ネットワーク二ュースレター』No.64(2011.7)。
(2)長迫忍「控訴から一年 中国電力男女賃金差別裁判」『ワーキング・ウィメンズ・ネットワークニュースレター』No.67(2012.4)。
(3)長迫忍・宮地光子ほか「中国電力男女賃金差別裁判 本人尋問開かれる」『ワーキング・ウィメンズ・ネットワークニュースレター』71号(2013.4)。
(4)長迫忍「2013.7.18の判決を受けて」『ワーキング・ウィメンズ・ネットワークニュースレター』No.72(2013.7)。このニュースレターには、「中国電力男女賃金差別事件・広島高裁不当判決に対する原告・弁護団声明」も同封されています。

※中国電力男女賃金差別裁判については、広島まで傍聴に通っておられた嶋川まき子さんが、ブログ「嶋川センセの知っ得社会科」で以下のような一連の記事を書いていらっしゃいます。ご参照ください。
・「硬直した業界と闘う女性ー男女賃金差別裁判の概要」(2011年7月14日)
・「中国電力男女賃金差別&日本の女性の状況」(2012年8月24日)
・「中国電力第一回控訴審報告」(2011年9月4日)
・「中国電力第一回控訴審報告2」(2011年12月31日)
・「中国電力男女賃金差別裁判控訴人尋問を傍聴する。」(2013年2月16日)
・「中国電力男女賃金差別裁判結審&社会権規約委員会の日本政府審査」(2013年5月28日)
・「中国電力男女賃金差別裁判控訴審判決NO1」(2013年7月20日)
・「中国電力男女賃金差別裁判控訴審判決NO2」(2013年7月20日)

プロフィール

HN:
遠山日出也
自己紹介:
これまで「中国女性・ジェンダーニュース+」の中で取り上げてきた日本の社会や運動についての記事をここに書くようにしました。ご連絡は、tooyama9011あっとまーくyahoo.co.jpにお願いいたします。

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