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    <title>社会の片隅から</title>
    <description>これまで「中国女性・ジェンダーニュース＋」で取り上げてきた日本の社会や運動に関する記事を扱います。</description>
    <link>https://genchi.syoyu.net/</link>
    <language>ja</language>
    <copyright>Copyright (C) NINJATOOLS ALL RIGHTS RESERVED.</copyright>

    <item>
      <title>なぜ森田成也氏は買春の処罰を主張して、主婦を扶養する男性の処罰は主張しないのか？</title>
      <description>&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;遠山日出也&lt;/div&gt;この2月に刊行された、小浜正子・板橋暁子編『東アジアの家族とセクシュアリティ：規範と逸脱』（京都大学学術出版会）の第3章として、私は「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動――2000年以降、両者の連帯に至るまで」という一文を書いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本のフェミニズムの中でも、セックスワークについては激しい議論が交わされている。そこで既に議論されていることと重なる部分も多いが、以下では、今回の拙文や他の中国の売買春についての研究の中から、私がこの問題について考えたことを記す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙文の中では、2001年に李銀河（中国社会科学院研究員）がセックスワークの「非犯罪化」を主張したことを述べている(p.89-90）。その第一の理由は、「セックスワークが犯罪とみなされることは、警察の腐敗（遠山註：警察が取締りの権限を利用してセックスワーカーに金品などを強要するなど）や犯罪組織の介入といった多くのマイナスの結果を招」き「性病防止にも不利である」ことだが、第二の理由は、「売春」と「扶養関係にある婚姻中の男女関係」とは明確には分けられず、妓女、妾、収入のない妻という「三つの状況は、量が異なるだけで、質に違いがない」以上、セックスワークを犯罪だとする理由はない、ということだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しばらく以前になるが、菊地夏野氏が「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://bunshun.jp/articles/-/39390&quot;&gt;『夜の街』連呼でやり玉に　コロナ禍で再燃する『セックスワーク』への差別意識&lt;/a&gt;」（文春オンライン2020年8月3日）を発表したのに対し、森田成也氏が「セックスワーカーを差別しているのは誰か――菊地夏野氏への反論――」(『戦争と性』第34号[2021年]）を書き、それを加筆修正して、Academiaに掲載した（&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://www.academia.edu/49850739/_%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC_%E3%82%92%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%8B_Who_discriminates_against_sex_workers_2021_1_7_&quot;&gt;「セックスワーカー」を差別しているのは誰か&lt;/a&gt;）。中国の場合は、売買春とも犯罪として処罰されている点は日本と異なるが、両氏の議論の論点には、李銀河の言う問題とも関係しているものがあるように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;女性差別や女性の貧困が背景にあって、金銭と引き換えにセックスを提供してもらうのは、買春だけでなく、男性による主婦の扶養も同じなのでは？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菊地氏は「性サービスを提供する女性が貧困であろうと、またサービスを買う男性が女性差別意識を持っていようと、それを理由にその女性の意志に基づいたセックスワークを否定できるのか？　問題なのは背景の貧困や差別であり、セックスワークの行為自体ではないはずだ」と主張した。それに対して、森田氏は、「買う男性の『女性差別意識』以上に、その行為そのものが女性差別と性的搾取の実践なのである」と主張した。森田氏がそう主張する理由は、「『背景の貧困や差別』に問題があるのなら、まさにその貧困や差別につけ込んで、本当はしたくもない相手と性行為をせざるをえなくしているのだから、それはまさにセクシュアルハラスメントないし性暴力として認識されるべき行為である」というものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、だとしたら、男性が収入のない妻（専業主婦）やお妾さんを扶養するという行為はどうなるのだろうか？　女性が主婦や妾になる（ならざるをえない）「背景」には、「女性差別」や女性の「貧困」があることは明らかだろう。男性が主婦や妾を持つことも、森田氏の言い方に従えば、客観的には「まさにその貧困や差別につけ込んで」いる行為だと言える。女性が不特定ではなく特定の男性だけの相手をすれば、妾であり、結婚して家事育児もすれば、主婦になるという違いがあるだけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん男性が主婦を扶養することには、それだけではない側面はあるし、主観的には「つけ込んで」いる意識はない人が多いだろう。しかし、それは買春でも同じことである。もし公然と貧困につけ込むような発言をすれば、買春の場合でも岡村隆史氏のように非難されるし、結婚でも、公然とその女性の貧困につけ込んで結婚を求める男は、卑劣な男と見なされるだろう（ドラマだと悪役である）。しかし、現実の問題としても、客観的に言って、年収の高い男性ほど結婚しやすいのである。これは、男性が妻を得ることができる一つの背景には女性差別や貧困があることを示しており、その点は買春と同じだと言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、森田氏は次のようにも言う。「貧困や差別を利用して相手の性（セクシュアリティ）を利用することが制度として、職業として存在することは、差別と人権侵害を職業にし、社会的制度にしていることであるから、会社や学校の中で部分的に起こる場合よりもいっそう深刻であり、いっそう差別的なはずである」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、男性が女性の「貧困や差別につけ込んで」主婦を持つことを制度的に支えているのが、ほかならぬ婚姻制度である。なぜなら、婚姻制度においては、夫婦間には扶養義務がある一方で、正当な理由なくセックスを拒否すれば離婚理由になるからだ。これは、多くの場合において、夫の妻に対する扶養と夫に対する妻のセックスの義務とを社会的制度にしたものだと言いうるだろう。もちろん今日では妻も収入を得ている場合が多いが、もし妻の収入が夫の収入より低いにもかかわらず、衣食住を共にし、家計を共にしているとしたら、夫が妻を扶養し、その引き換えに妻が夫にセックスを提供している面があることは否定できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森田氏が唱える「新廃止主義」は、売春は処罰しないが、買春と業者を処罰することによって、性産業を廃止するというものである。しかし、上で述べたように、もし森田氏の上記の議論が正しいとしたら、客観的には女性差別や女性の貧困につけ込むことによって、女性を扶養することと引き換えにセックスをしてもらう男性も処罰しなければならない。また、それを社会的制度として支えている婚姻制度も直ちに廃止することを主張しなければおかしいし、それを産業にしているブライダル産業も禁止しなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし妻を扶養する夫を処罰するとしたら、どうなるだろうか？　たまたまその妻が夫からDVを受けている場合などは、妻の状況が改善される場合がないとは言えない（たとえば夫が妻を離婚したり、妻の経済的自立をサポートしたりせざるをえなくなって）。それは、たまたまセックスワーカーが不当な暴力や拘束を受けている場合ならば、「新廃止主義」によって性産業をまるごと法律で禁止することが、その女性にとっては一定の解放になる場合もあるのと同じことである（＊）。しかし、多くの場合、妻を扶養する夫を処罰し、婚姻制度を今すぐ廃止することは、女性が男性と結婚する場合の選択の自由を奪うだけでなく、場合によっては生活の手段（それが弊害を伴うものであるとしても）を奪うことになり、むしろ女性の状況を悪化させる場合が多いだろう。これは、買春や性産業を今すぐ法律の力によって禁止することが、女性の選択の自由や女性が望む生活の手段を奪うことになる場合が多いのと同じことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊）この点は、中華人民共和国建国（1949年）初期に妓院（売春施設）を閉鎖したときも同じだった。もちろんこの時代は、売春女性に対する強制と暴力が今より多かった時代であり、建国以前から妓院にいて人身拘束や虐待・脅迫などの経験があった女性たちは、中国共産党に施設に収容されることによって自分が解放されたと思ったという。しかし、建国後、とくに拘束もされずに売春を始めた女性は、家から売春宿に通っていて、虐待や脅迫もほとんどなかったので、施設に収容されたことに感謝したりはしはなかったという（林紅『中国における買売春根絶政策：一九五〇年代の福州市の実施過程を中心に』明石書店、2007年、p.219-221, 226, 234-235, 254）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、業者についても、営業自体を処罰することは良いとは言い難い。艾暁明（当時、中山大学中文系教授）は、2014年、「性の市場化・産業化」について、「個人で街頭に立つよりも、金をゆすり取られたり、巻き上げられたりする危険は少ない」という点では「一定程度、その権益の保護に有利である」と主張した（前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110）。もっとも、この点については、たとえ市場化されていても、日本で言われているように、店舗型の性風俗が規制されて、デリバリーヘルス中心になるとセックスワーカーが危険にさらされることになるが（＊）、いずれにしても個人で孤立した形で営業することは、危険性が高いことはたしかである。業者についても、労働法制や労働運動の監視下に置くのがよいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊）要友紀子氏は「風営法改正（1999年）によってデリヘル（※デリバリーヘルスの略。客のいるホテルや自宅で性的サービスを提供する風俗）が合法化されメジャー化した一方で、店舗型風俗店の新規出店ができなくなったため、ほとんどのセックスワーカーたちは、客と二人きりのホテルか客の自宅という密室で働かざるを得なくなってしまいました」と語っている（「&lt;a href=&quot;https://www.dreampossibility.com/times/3249/&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&amp;ldquo;法的フレーム、社会的フレームによるセックスワークの「不安全」をなくし、労働環境を良くしていきたい&amp;rdquo;D&amp;times;P公開型勉強会レポート&lt;/a&gt;」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応のアンバランスさは、実質的にはセックスワーカーに対する差別にならないか？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上から見て、森田氏の主張は、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と、売買春に対する対応がきわめてアンバランスだと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森田氏は、新廃止主義は、セックスワーカーの人権を侵害している買春者や業者を処罰するのだから、セックスワーカー差別ではまったくないと主張している。たしかに、昔のように売春女性を処罰するようなやり方と比べれば、そうだと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、中国でも、黄盈盈（中国人民大学副教授）は、「売春を罰せずに、買春を罰する」やり方に対して、「もし私が物を売っているときに、あなたが客を追い払ったら、私の権益を侵害していないか？」と問うている（前掲「中国のフェミニズムとセックスワーカー運動」p.110）。主婦の場合で考えると、たとえ主婦自身は処罰しなくても、主婦を養う夫を処罰したら、それがたとえ罰金刑だとしても、それはかなりの程度、実質的には主婦のいる家庭に対する罰金になり、「主婦差別」になるのではないだろうか？　それと同じ意味でも、新廃止主義は、「セックスワーカー差別」だと言いうるのではないだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森田氏は、自らの議論が「性道徳にもとづく反対論」ではないことを強調している。たしかに一見そう見えるのだが、夫による妻の扶養や婚姻制度に対する対応と売買春に対する対応のアンバランスさを見ると、森田氏の主張は、婚姻内のセックスであるか否かを評価の基準にしているので、そうした性道徳を前提にすることになっていると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;夫による妻の扶養や婚姻制度と売買春との共通性を否定するのは無理ではないか？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も、女性が夫に扶養されたり売春したりしなければ生きていけない状況は、女性差別や女性の貧困をなくすことを通じて、なくさなければならないと思う。また、婚姻制度もなくさなければならないと思う。ただし、それは、誰もが自立できる、個人単位の賃金と社会保障の制度を構築することや、売春や婚姻から抜け出すことを阻む暴力をなくすことを通じてであろう。ただし、社会から差別や貧困がなくなっても、一時的に扶養・被扶養の関係になったり、そのために私的契約を結んだり、性の金銭的取引をしたりする人はいる可能性は十分あるし、そのためのグループや業者も存在するかもしれないが――こうした点についての未来予想は難しい――べつにそのことを法律で禁止する必要はないように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん男性が、買春について、男女の経済的格差や性規範の二重基準、セックスワーカーの置かれた状況などの観点から考えたり、何らかの行動をしたりすることは有意義だと思う。ただ、買春する男性を処罰することは、発展途上国の劣悪な労働条件の下で製造されたユニクロの製品を買う消費者を処罰するのと同じような無理があると思うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
売買春と婚姻制度との類似性や両者の関係については、もちろん日本でもすでに多くの人々が指摘している。ほかならぬ菊地氏が売春女性と主婦の共通性と分断について詳しく論じているし、最近も、青山薫氏、要友紀子氏、岡田実穂氏が触れている。&lt;br /&gt;
・菊地夏野「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192609/1/kjs_009_129.pdf&quot;&gt;フェミニズムと『売買春』論の再検討: 『自由意志対強制』の神話&lt;/a&gt;(PDF)」『京都社会学年報』9号(2001年)、とくにp.141-145。&lt;br /&gt;
・青山薫「セックスワーカーの人権・自由・安全――グローバルな連帯は可能か」辻村みよ子編『（ジェンダー社会科学の可能性　第1巻）かけがえのない個から――人権と家族をめぐる法と制度』岩波書店 2011年、p.150-151。&lt;br /&gt;
・要友紀子「誰が問いを立てるのか」SWASH編『セックスワーク・スタディーズ』日本評論社、2018年、p.35。&lt;br /&gt;
・岡田実穂「合意とは何か」同上、p.185。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、この点は、すでに学界でも議論になっているようだ。たとえば、新廃止主義の立場に立つ中里見博氏によると、2018年のジェンダー法学会16回学術大会で、同氏に対して、「性売買に関する不平等説=新廃止主義の議論は、性関係の典型的な契約である婚姻についても類推され、婚姻制度廃止論へつながるか」という質問が出されたのに対して、同氏は、「性売買廃止の議論が直接あらゆる婚姻制度廃止につながるとは考えていない。なぜなら、性売買は一時的な性関係を基礎にしているのに対して、婚姻は『性の絆』であると同時に、相互的な『ケアの絆』としての可能性を持っているからである。ただし家父長主義の強い婚姻制度が否定されるだけでなく、現在の婚姻制度に種々の改革が不可欠だと考えると回答した」とのことである（中里見博「コメントおよびフロアとの討論」『ジェンダーと法』16[2019年]p.65）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに、性売買と婚姻制度との間には異質性も存在しているだろう。しかし、第一に、中里見氏の回答も、その共通性自体を否定できているわけではない。とすれば、「買春は処罰するが、主婦を扶養することは無罪放免」というような対極的な措置までは正当化できないのではないか。第二に、一時的な性関係ならば深刻な問題にならなくても、同居し続けているからこそ深刻になる継続的な暴力・虐待のような問題もあるのだから、一概に婚姻関係のほうが問題が少ないとも言い難いのではないか。第三に、たしかに中里見氏が言うように、婚姻の中にも「相互的な『ケアの絆』としての可能性」は孕まれているだろうが、その可能性が現実のものとなるのは、賃金や社会保障の個人単位化や社会的サービスの充実などによって、誰もが経済的・社会的に、かつ生活の面でも自立できる条件が保障され、男女が対等な関係になったときであろうし、そのときには婚姻制度は不要になるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森田氏は他にもさまざまな論点を出しており、私が不勉強なために、判断できない点もあるが、以上の点については、私はこのように考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、拙稿は、中国でのセックスワーカー運動のことや、セックスワーク論に批判的な中国の人々の見解なども掲載しているので、よろしければご参照ください。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-3/3.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>「草食系男子」とジェンダー平等――森岡正博さんに対する前川直哉さんの批判について</title>
      <description>遠山日出也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;目次&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
はじめに&lt;br /&gt;
1　前川さんの主張の要旨&lt;br /&gt;
2　森岡さんが言う「内発的な動機」「『男らしさ』からの脱却」とは？&lt;br /&gt;
　2-1　「内発的な動機」＝「いわば利己的な動機」か？　一要因としての「男女平等思想」&lt;br /&gt;
　2-2　「『男らしさ』からの脱却」の具体的内容は？　女性を縛る「女らしさ」や性別役割とは無関係か？&lt;br /&gt;
3　草食系男子の恋愛全体のジェンダー平等／差別性を検討する必要&lt;br /&gt;
4　森岡さんが指摘する草食系男子の特徴から&lt;br /&gt;
5　森岡さんによる草食系男子へのインタビューから&lt;br /&gt;
　5-1　コミュニケーションにおける性別役割&lt;br /&gt;
　5-2　労働における性別役割分業&lt;br /&gt;
　　5-2-1　全体的には、性別分業に対して柔軟な傾向&lt;br /&gt;
　　5-2-2　子どもが小さいうちは妻が家庭にいることを望む意見について&lt;br /&gt;
6　草食系男子は、ジェンダー平等への第一歩はすでに踏み出している&lt;br /&gt;
7　「男らしさ」に乗らないことは必ずしも「生きやすい」「利己的な」選択ではない――彼らを応援した森岡さんの著書の意義&lt;br /&gt;
8　森岡さんが言う「草食系男子」の増加は立証されていない――この点で「フェミニズムの勝利」か疑問が残る&lt;br /&gt;
9　「美味しいとこ取り」をどう考えるか&lt;br /&gt;
　9-1　森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」について、定義や考察の対象が少し異なるのでは？&lt;br /&gt;
　9-2　「美味しいとこ取り」とそれに対する対応についての私なりの考察&lt;br /&gt;
10　草食系男子にどう訴えるか&lt;br /&gt;
　10-1　歴史を踏まえた訴え&lt;br /&gt;
　10-2　とくに草食系男子に焦点を当てた訴え&lt;br /&gt;
　10-3　とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴え&lt;br /&gt;
おわりに&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;はじめに&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川直哉さんが、先月、「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69801&quot;&gt;『草食系男子』は、どうすればジェンダー平等への一歩を踏み出せるか　〈男らしさからの脱却〉論を超えて&lt;/a&gt;」（『現代ビジネス』2020年1月16日）を発表なさいました。前川さんは、森岡正博さんの「草食系男子」論を参考にしつつも、それを批判しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんの一文は、男性が自らの性別役割から脱却することや男性自身の解放とジェンダー平等との関係についての考察にもなっています。私もこのテーマについては強い関心を持っています(注1)。前川さんは、両者の間に区別と関連の両方があることを述べています。この点も、私は、前川さんと同じ考えです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、私は、前川さんも依拠している森岡さんの草食系男子に関する調査や考察の到達点を踏まえるかぎり、前川さんがおっしゃるより、両者の間に強い関連があると考えます。本稿ではそうした点について論じていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;1　前川さんの主張の要旨&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、以下で、前川さんの主張の要旨を紹介させていただきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#800000&quot; style=&quot;color: #800000;&quot;&gt;森岡正博さんは、草食系男子は「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護するという意味での『男らしさ』を窮屈に感じ、その呪縛から自分で降りようとしている男性たちである」、「女性たちに糾弾されたからそうするというのではなく、自分たちの内発的な動機によってそうする」であり、彼らの登場は「フェミニズムの勝利だと捉えてよい」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに草食系男子の中には、女性の困難を含めたジェンダーの問題と向き合う声もあるが、その一方で、「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と言う人もおり、彼らは必ずしも性別役割分業観から自由というわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私（=前川さん）は、草食系男子が「内発的な動機によって」自らのジェンダー規範から降りる点にこそ問題があると考えている。男性が自身を縛る「男らしさ」の呪縛を窮屈に感じ、そこから逃れようとすることと、女性に「女らしさ」や「ケア役割」を求め続けることは、「自身の生きやすさの追求」という内発的動機において両立できてしまう。もしそういう「美味しいとこどり」をする男性が増えたのなら、「フェミニズムの勝利」と呼ぶことはできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よく似た構造は、「男はつらいよ型男性学」がはらむ問題点にも見られる。この点については、江原由美子さんが指摘している危惧を、私も以下のように共有している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性が、自らに課せられた性別役割やジェンダー規範からの脱却を求めるだけではなく、女性に課せられた性別役割やジェンダー規範を変えようとしない限り、ジェンダー平等という社会的公正に資することにはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性たちが自身の心地よさだけを追求すると、自身が男性として享受している特権を温存しようという動きに繋がりかねない。彼らにとって、フェミニズムの主張は、自分たちの安寧を脅かすので、バッシングの対象となってしまう。「男らしさも恋愛も面倒」という、いわば利己的な理由だけで「草食化」した男性たちは、ジェンダー平等に資する存在とは言えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、草食系男子は、ジェンダー平等で公正な社会の実現に貢献する可能性を秘めている。森岡さんは草食系男子の特徴の一つとして「女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる」ことを挙げている。この点は、ジェンダー平等という観点から見たとき、今の日本社会において全ての男性に求められている。また、「男らしさ」に違和感を抱いた男性が、「女らしさ」による女性の生きづらさに気づくケースも多いだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人権や平等といった近代の概念は、少しずつその対象範囲を広げてきた。制限選挙で選挙権を有していた特権層が、自分の一票の重みが減るのを承知で男子普通選挙導入を訴える政党に票を投じ男子普選を実現させたように、自身の特権が多少減じてでも「公正な社会」を選んできた歴史は無数にある。私たちもその恩恵を得ているのだから、より平等で公正な社会を目指す動きに待ったをかけるのは、虫が良すぎる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会的公正と自身の生きやすさの追求は、決して矛盾するものではなく、両立できる。女性が生きづらさを訴える声に耳を傾け、この社会がよりジェンダーに縛られない、公正なものとなるよう身近なことから変えていこう。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんの主張は、だいたい以上のようなものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も、前川さんが述べておられる主張のうち、以下の点には意義があるし、賛同できると考えています。&lt;br /&gt;
・男性が、自らに課せられた性別役割やジェンダー規範からの脱却することと、女性に課せられたそれらを変えることとは別の問題である面を指摘していること。&lt;br /&gt;
・草食系男子がジェンダー平等社会の実現に貢献できる面を指摘していること。&lt;br /&gt;
・「美味しいとこどり」の問題を提起したこと。&lt;br /&gt;
・特権層が自身の特権が減じてでも「公正な社会」を選んできた歴史があること。社会的公正と自身の生きやすさの追求は矛盾するものではなく、両立できること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が前川さんに同意できないのは、前川さんが以下のような論理を展開している点です。：草食系男子が「男らしさ」の呪縛から逃れるのは彼らの「内発的な動機」によるものである点に問題がある。それは自らの「生きやすさ」の追求という「いわば利己的な理由」であり、性別役割（分業）や女性の生きづらさとの解消とは別問題なので、彼らの登場はジェンダー平等に資するものではなく、「フェミニズムの勝利」(森岡)とは言えない。むしろ、彼らにとって、フェミニズムの主張は、自分たちの安寧を脅かすものとしてバッシングの対象となりかねない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんも述べているように「草食系男子」の定義は人によってさまざまですし、実態に対する認識も人によって異なりますが、前川さんは下のa～cの森岡さんの著作に依拠して論じておられるので、ここでは、私も同じ森岡さんの著作にもとづいて考えてみます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
a.森岡正博『草食系男子の恋愛学』（メディアファクトリー 2008）&lt;br /&gt;
b.森岡正博『最後の恋は草食系男子が持ってくる』（マガジンハウス 2009）&lt;br /&gt;
c.森岡正博「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.lifestudies.org/press/rls0103.pdf&quot;&gt;『草食系男子』の現象学的考察&lt;/a&gt;(PDF)」&lt;i&gt;The Review of Life Studies&lt;/i&gt; 1(2011)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、森岡さんの著作からの引用は、上記の各文献に付けたa、b、cの記号とページ数を記します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、以下では、できるだけ丁寧に議論をしたために、長文になっていることをお詫びします。前川さんご本人もとっくにお気づきの点を述べている個所もあると思いますが、その点もご了承ください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2.森岡さんが言う「内発的な動機」「『男らしさ』からの脱却」とは？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんの一文では、「内発的な動機」と「『男らしさ』からの脱却」という概念が重要な位置を占めています。まず、私は、それらの意味を正確に捉える必要があると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-1　「内発的動機」＝「いわば利己的な動機」か？　一要因としての「男女平等思想」&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
心理学では、一般的に、「外発的動機づけ」が「叱責、罰、報酬、強制」などの外的な要因によって引き起こされるものであるに対し、「内発的動機づけ」とは、好奇心や知的関心にもとづくなど、「賞罰には依存しない」ものだと言われます(注2)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森岡さんの場合も、草食系男子が「男らしさ」から降りる「内発的な動機」について、「女性たちに糾弾されたからではなく～」という説明を付しています。「糾弾」という語は若干戯画的ですが、「叱責や罰によるものではない」という程度の意味でしょうから、上の一般的意味における「内発的／外発的動機」の分類に沿ったものと言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうである以上、「内発的な動機」は、必ずしも自身の「生きやすさ」の追求という「いわば利己的な理由」によるものとは限りません。なぜなら、とくに外部からの賞罰や強制がなくとも、「他人のため」や「（自分のためだけでなく）みんなのため」に行動する人はたくさんいるからです。前川さんも、きっとその中のお一人だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さん自身が最後で呼びかけている内容も、なにも「男性の自発的動きに期待しても無駄だから、女性たちが法律や制度の力で性差別を規制することによって男性の行動を変えよう」ということ（もちろんそれも大事ですが）ではなく、男性に対して人権の歴史を説くことによって、彼らの内発的動機を喚起するものにほかなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、たしかに森岡さんは、男性が「男らしさ」を脱却することについて、「『男らしさ』を窮屈に感じ～」という説明をしている個所もあり[c:28]、少なくともその面に関しては、自らの「生きやすさ」の追求という動機があると言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、第一の問題は、動機が果たしてそれだけなのか、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私などが改めて言うまでもなく、「内発的な動機」は、社会のあり方と無関係なものでも、超歴史的に存在しているものでもなく、特定の歴史的社会的条件の下で生じた「内発」性です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その点に関して、森岡さんは、草食系男子の増加の背景について、「戦争に関与しない平和な社会」[b:55]が長く続いたこととともに、「草食系男子は、恋愛における男女平等を好みますから、男女平等思想が日本に根付いたことは、きっと関係していると思われます」[b:58]と述べています(注3)。その関連性を示すデータは提示できていないとはいえ、まず、その点から言っても、彼らの行動は「いわば利己的な理由」だけによるものではないと、少なくとも森岡さんは理解しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
草食系男子誕生の背景の一つに「男女平等思想」があるとしたら、その「『男らしさ』からの脱却」は、男性自身の「生きやすさ」を追求するためだけのものだとは言えません。むしろ「『男らしさ』からの脱却」とも「男女平等思想」は関係があるのではないか、という疑いも生じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点は、森岡さんが把握した草食系男子の「『男らしさ』からの脱却」が、どのようなものかとも関わるので、後の&lt;strong&gt;2-2&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;4&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;5&lt;/strong&gt;でさらに考えたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、上の点とも関連しますが、男性が自分の「生きやすさ」を追求することと果たしてジェンダー平等とは無関係なのかという問題があります（前川さんも、両立することは指摘しています）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後述のように、私は、男性が自らの「生きやすさ」の追求を大きな社会的規模でおこなおうとすればするほど、それは、自らの「特権」を放棄することを含めたジェンダー平等社会の実現なしには不可能になると考えています。草食系男子がそれをめざしているわけではないのですが、この点についても後で触れます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-2　「『男らしさ』からの脱却」の具体的内容は？　女性を縛る「女らしさ」や性別役割とは無関係か？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、「男らしさ」が、何らかの意味で「女らしさ」との対比で語られる概念である以上、論理的に言えば、そこからの「脱却」は、方向性としては、何らかの意味と程度において、「男らしさ／女らしさ」の区分を解消する方向性を持った変化たらざるをえないと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、「『男らしさ』からの脱却」と言われるすべての行為が、「男らしさ／女らしさ」という区分の解消まで展望しているわけでは、まったくありません。「『男らしさ』からの脱却」の中にも、さまざまな程度や形態の「脱却」があります。また、自分では「男らしさ」から脱却したつもりが、実は「男らしさ」の形態が変わっただけ、という場合もあるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、だとしても、まず、どういう意味で森岡さんが「男らしさ(からの脱却)」を言っているかを見る必要があるのではないでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、森岡さん自身による「男らしさ」の説明は、前川さんの引用にもあるとおり、「みずからが規範を産出して女性を制圧し保護する」[c:26]というものです。だとすれば、それに対応する「女らしさ」として、「男性に従属し保護される」ことがあると想定されるので、「女らしさ」や性別分業とは無関係とは言えません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下で、もう少し具体的に見ていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3　草食系男子の恋愛自体のジェンダー平等／差別性を検討する必要&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに森岡さんは、草食系男子の登場は「フェミニズムの勝利」[c:26]だと言っています。しかし、続けて森岡さんが言っているように、草食系男子が登場しただけでは「もちろん（&amp;hellip;&amp;hellip;）社会のジェンダー構造や規範そのものがただちに解体されるわけでは」ありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森岡さんの文章は、男女間の恋愛のあり方を論じたものであり、また、「男子」という言葉や「草食・肉食」という言葉からわかるように、とくに若い世代の恋愛を中心にした考察になっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とすれば、まず、森岡さんが調査・考察した恋愛のあり方自体について、トータルに、ジェンダー平等の観点から検討する必要があります。恋愛においても、女性に対する差別や抑圧、性別役割は生じてきたのですから、そのあり方自体が、ジェンダー平等の重要な一部でしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その点を、以下の&lt;strong&gt;4&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;5&lt;/strong&gt;で見ていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;4　森岡さんが指摘した「草食系男子」の特徴から&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、森岡さんが挙げている「草食系男子」の5つの特徴[b:17-18]を見てみましょう。森岡さんは、草食系男子を「肉食系男子」との対比で語っていますので、カッコ内の「&amp;hArr;」の後に、肉食系男子の特徴も付記しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(1)優しい心を持っている（&amp;hArr;ハードな心を持っている）&lt;br /&gt;
(2)「男はこうあるべきだ」という男らしさに縛られていない（&amp;hArr;「男はこうあるべきだ」という男らしさを肯定している）&lt;br /&gt;
(3)女性に対して、性的にガツガツしない（&amp;hArr;女性に対して、性的に積極的に行動する）&lt;br /&gt;
(4)女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる（&amp;hArr;女性をまず女として見る、性的に惹かれないときのみ、ひとりの人間として見る）&lt;br /&gt;
(5)傷つくこと、傷つけることが苦手（&amp;hArr;傷つくこと、傷つけることを通して人間は強くなるものと考える）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この5つの特徴は、いずれも、大まかに言えば、「男／女のジェンダー」を乗り越える要素を持っています。まず、(1)は、女性の特質とされている「優しさ」を男性も持つという面があります。森岡さんの説明[b:18-21]によると、それは、「弱い立場の人の身になって考え(&amp;hellip;&amp;hellip;)るなど、やわらかい心の働き」で、「つねに対話をして、お互いの気持ちを確かめ合」いたいと思うことです。これは、通常女性に求められることか、男女を対等な関係として理解した場合の行動でしょう。(2)の「男らしさ」は、「戦うことができ、頼もしく、力強く、女性をぐいぐいと引っ張っていき、弱い女性を守ろうとするような態度」と説明されているので、「男が女を引っ張る」ことに囚われないということです。(3)は、男性と女性を、性的能動性／受動性で区分することを否定する要素を持っています。さらに、(4)は、性的に惹かれるか否かにかかわらず、女性をひとりの人間として見ることであり、女性を、男／女の区分だけに囚われずに見る見方です。また、(5)のような繊細さは、一般には女性の特質とされていると思いますが、それを男性も持つことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、まず、非常に大づかみな捉え方になりますが、森岡さんが挙げる「草食系男子」の基本的特徴からは、彼らは、大きな方向としては、ジェンダー平等に向けて前進していると理解できるように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この5つの特徴とそれぞれの説明からは、それぞれが相互に関連していることも見えてきます。すなわち、「優しい心を持っている」から、「女性をぐいぐいと引っ張ってい」くといった「男らしさ」にとらわれず、「女性をひとりの人間」として視るので、「性的にガツガツ」して、女性を「傷つけ」ないよう行動する、というふうに、ごく自然に5つの特徴はつながります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だとすると、(2)の「男らしさ」から降りることも、ジェンダー平等的要素を持った他の4つの特徴と結びついたものだと言えますから、こうした文脈的に見ても、ジェンダー平等的な要素を持ったものとして捉えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、いずれも、男性が自分の「生きやすさ」を追求しているという理由だけから生じた特徴だと言える根拠はなく、「男女平等思想」の影響もあると見たほうが自然である（少なくとも、男女平等思想によって強化される特徴である）ように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;5　森岡さんによる草食系男子へのインタビューから&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、より具体的に、森岡さんがインタビューした草食系男子の実例を検討してみましょう。以下では、森岡さんが取材した「ファイル1」から「ファイル4」[b:62-143]に収められた男性を、順に、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんと記すことにします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;5-1　コミュニケーションにおける性別役割&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森岡さんのインタビューからは、草食系男子のコミュニケーションには、以下のような(a)～(e)のような特徴があるとまとめられるように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(a) 男性が女性をリードするという役割に囚われず、セックスするか否かやデートの内容について2人で話し合って決める。人によっては、むしろ女性にリードされることを求める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Aさん：「男性側には暗黙のうちにリードすることが求められ」たり、「AVのように一方的に欲望を押しつけ」たりすることは、「無理！」。それは、「自分も傷つきそうで、相手も傷つけてしまいそう」だから[b:67-68]。&lt;br /&gt;
・Bさん：「素の僕はリーダーシップを発揮するタイプではない。恋愛の場でもそれを求められてもそこまでも頼りがいはないよと。」[b:97]&lt;br /&gt;
・Cさん：「僕は年上の女性がいいんですね」「年上がいいのは、引っ張ってもらいたいから」[b:104-105]&lt;br /&gt;
・Dさん：彼女が部屋に呼んでくれたら、「[セックスを]したいって伝えるとは思いますけれども」、「積極的に迫」ったり、「襲ったり」はしない。「僕も草食系だから分かるんですが、草食系の男って、どうしても『相手が嫌がったらどうしよう』と考えちゃう」[b:127-128]。「なんでもそうですけど、男側だけじゃなく、女性にも言いたいことを言ってもらって、お互い意思疎通するのが大切かなって思います」[b:131]。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、森岡さんがインタビューした草食系男子は、「男性は女性をリードし、女性は男性にリードされる」という性別役割に従っていません。こうした性別役割は、同意なきセックス=性暴力やDVの温床になるものです。また、女性のほうが男性より年齢などが低くなければならないといった抑圧の温床にもなります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(b) 男性もちゃんと相手（女性）の話を聞く。つまり、男性も、女性と同様のコミュニケーションの仕方になる。この点は、(a)とも関係があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Aさん：「僕が女性同士の会話を聞いて好ましいと思うのは、自分の人生設計や、恋愛の悩みを、本音を交えて、きちんと意見交換し合う点ですね。男同士の話って、ネタにネタをかぶせるようなところがあって実がないことになりがち。だから、僕も女性と地に足が付いた話ができるのは、発見も多くて楽しい。」[b:82]。&lt;br /&gt;
・Bさん：「基本的には女性の話を聞くのは好きなので、彼女が話したいことを話してもらえば楽しい」[b:98]&lt;br /&gt;
・Cさん：「僕は知的な会話ができる女性がタイプ」「僕が知らないことをいろいろ知っていて教えてもらえるのも刺激的。」[b:107] &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、彼らは、「男性が話をし、女性は聞き役になる」という性別役割には従っていません。この性別役割は、女性のケア役割、男性のマンスプレイニングにしばしば結びつくものであり、性差別的なものと地続きだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(c) 女性とも、友だちどうしの関係になれる。この点は(b)とも関係があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Bさん：「女性と友達になるまでの敷居は低いんですよ。女性と1対1でお茶したりするのも緊張しません」[b:98]、「人と暮らすのは苦ではないんです。いまも、女友達とルームシェアしています。(&amp;hellip;&amp;hellip;)彼女には別に恋人がいますから、僕と恋愛に発展することもないですね。」[b:100]&lt;br /&gt;
・Cさん：「好みの女性と付き合いたいというより、まずは友達として親しくなりたい」[b:108] &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点は、先述の(4)の「女性を、女として見る前に、ひとりの人間として見ることができる」という特徴と関わります。この特徴が、とくに「女性の困難に気づき、社会を変えていくための大切な第一歩」（前川さん）と言えるかはわかりませんが、たしかにジェンダー平等にプラスになるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(d)女性に積極的にアプローチすることによってモテたいという気持ちは少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Aさん：「男性文化に違和感」があった。たとえば飲み会の席では、男ばかりだと定番の猥談が飛び出すが、それは「何人とセックスした経験があるとか、つきあった彼女とヤッてどれくらい良かったとか」という、自分がどれだけもてたかの「武勇伝」だ。「でも僕自身はもてたいと自然に思うことができない」「もてるためには、女性に積極的にアプローチしなければならないのでしょうが、それは僕にとってはハードルが高い」[b:65] &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性が女性を追い求めるべきだという規範も、「男は能動的・女は受動的」という性別役割の一部であるだけでなく、ストーカー的な行為と地続きだったり、女性からのアプローチに否定的だったりするという意味で性差別的です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(e)恋愛に熱が上がらない、一人が気楽でいい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Bさん：「恋愛に対して熱が上がらないんです」[b:96]、「低め安定の恋愛がいちばん心地いい」[b:97]&lt;br /&gt;
・Cさん：「恋人はいまはいません。ひとりが気楽でいいかなという気持ちがまだ強いのかなあ」[b:103]、「恋人がいるのもステキだけど、どこへ行きたいとか何時に会うとか予定をすり合わせなきゃいけない。それがちょっと面倒というか。ひとりだったら、勝手にできますからね。[b:109] &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした志向は、直接には女性と関係ありませんが、カップル単位に対する冷めた感情ですから、間接的には性差別解消にとってプラスの要素があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の(a)～(e)の点において、草食系男子や彼らの「『男らしさ』からの脱却」は、性別役割における女性の従属性・被抑圧性の解消やジェンダーにおける男女二分法の克服に向けて前進していると言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした草食系男子が誕生する背景として、「男らしさ」の呪縛の窮屈さだけでなく、(a)～(d)の点については男女平等意識もあると想定することも、ごく自然なように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とくに彼らが感じている「『男らしさ』の窮屈さ」や「生きづらさ」に焦点を当てるとしても(注4)、その点が言葉としてうかがえるのは、「暗黙のうちにリードすることを&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;求められる&lt;/span&gt;」[b:67]、「[男は]もてるためには、女性に積極的にアプローチし&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;なければならない&lt;/span&gt;」[b:65]という文の下線部あたりでしょう。男性が女性を「リード」しなければならないことへの抵抗は、他にも語られています[b:97,105]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほかに、「自分も傷つきそうで、相手も傷つけてしまいそう」だから「&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;無理&lt;/span&gt;」[b:67]とか、「&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;どうしても&lt;/span&gt;『相手が嫌がったらどうしよう』と考えちゃう」(下線部は遠山)[b:128]とか、「男同士の話って、ネタにネタをかぶせるようなところがあって実のないことになりがち」[b:82]というあたりにも、彼らの抵抗感が読み取れます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これらは、上で見たように(a)(b)(d)の文脈で言われていることであり、彼らが抵抗を感じている「男らしさ」の規範は、女性には男性以上のしんどさを生じかねないことです。ですから、これらの点については、彼らが「男らしさ」から脱却し「生きやすさ」を求めることは、女性の「生きづらさ」の解消にもつながることだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;5-2　労働における性別役割分業&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんが、「男らしさ」からの脱却と「女らしさ」や性別役割の問題とどう向き合うかとは別問題だ、と述べる根拠は、「草食系男子」の女性観・家族観の内容は様々だが、自分が望む結婚の形として「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と答えるような人もいたという理由によるものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;5-2-1　全体的には、性別分業に対して柔軟な傾向&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかにおっしゃるように「様々」なのですが、私は、前川さんが肯定的に引用しているAさんだけでなく、他の男性も、家事分担には比較的積極的姿勢を見せている点にも注目しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・Bさん：「家事はとくに割り振っていないんです、適当に分担し合ってやっていますが」[b:100]&lt;br /&gt;
・Cさん：「会社に弁当持参で行く」[b:102]、「もし結婚しても、妻には仕事を続けてもらいたいので、家事は分担しますよ。(&amp;hellip;&amp;hellip;)家庭を切り盛りしてもらいたいとか、女性的な役割を押しつける気はありません。極論すれば、彼女がすごいキャリア志向なら、僕が仕事を辞めて主夫をしてもいいかな」[b:108] &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
・「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と言ったのはDさんですが、彼さえも&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「学生のとき、ずっと自炊していたので、最低限は作れますよ」「料理は料理教室に通いたいぐらい好きです。」、(結婚したら料理を)「一緒にできたらいいなって思います」「一緒に作ったりしたいですね」[b:122] &lt;/span&gt;と言っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事例の数が少なすぎるとはいえ、こうした家事に関する姿勢は、「草食系男子」の他の特徴とつながっているので、必ずしも偶然ではないように思います。Bさんは、家事分担について、&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「いまも、女友達とルームシェアして」して、将来は「同居人感覚の結婚もありかな」[b:100]&lt;/span&gt;という文脈の中で語っています。Cさんの場合は、&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;「年上の女性がいい」とか「引っ張っていってもらいたい」[b:104] &lt;/span&gt;という希望とつながっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らの現実の共同生活の中では、こうした姿勢が貫かれ（てい）ない可能性はありますが、平均的男性に比べれば、柔軟な姿勢を持っているように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;5-2-2　子どもが小さいうちは妻が家庭にいることを望む意見について&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Dさんは、以下のような発言を見ると、他の面でも、他の3人より保守的な点があります（質問事項が異なるので、厳密な比較はできませんが）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span color=&quot;#0000ff&quot; style=&quot;color: #0000ff;&quot;&gt;・相手の女性に求めるものは、「こっちの心とか、立場とかに対する(&amp;hellip;&amp;hellip;)思いやり」[b:115]&lt;br /&gt;
・「プロポーズは自分からしたい」、「ふだんはグダグダでも、節目はきちんとしたいなと思うので」[b:118]&lt;br /&gt;
・結婚に一番求めていることは、「落ち着く場所というか自分の居場所というか帰る場所がある」こと[b:119]。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Dさんについて、どう考えたらいいのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、こうした保守性は、Dさんのプロポーズについての発言にみられるように、「男性が女性をリードし、女性は男性にリードされる」関係、そうした意味での「『男らしさ』からの脱却」が不十分であることと関係があるのではないか、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、そうは言っても、すでに触れたように、Dさんも、女性に嫌がられることはせず、お互いの意思疎通を重視するという点などでは「草食系男子」の特徴を持っています。こうした特徴は、もし女性が出産後に仕事を辞めることやケア役割を嫌がったら、それと矛盾する可能性があります。この矛盾は、Dさんと女性が話し合う過程で、Dさんが考えを改めることによって解決する可能性もありますし、逆に、Dさんが女性の意思を押さえつけることによって問題を「解決」して、Dさんが草食系男子ではなくなる可能性もあると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の2つの意味で、Dさんの事例も、「男らしさ」からの脱却と女性に女性役割を求めることからの脱却とは関係があることを示しているのではないか？　前者だけから脱却して、後者から脱却しないことは、矛盾をきたすのではないか？　と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;6　草食系男子は、ジェンダー平等への第一歩はすでに踏み出している&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の&lt;strong&gt;2&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;4&lt;/strong&gt;、&lt;strong&gt;5&lt;/strong&gt;の点から見て、草食系男子は、「ジェンダー平等への一歩」はすでに踏み出していると言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、森岡さんの「男らしさ」の定義や「草食系男子」の特徴づけ（その背景としての「男女平等思想」を含めて）、「草食系男子」へのインタビューから見るかぎり、森岡さんの言う「男らしさ」から降りることは、ジェンダー平等への前進であり、女性の抑圧解消にもプラスになるものだと言えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、「男らしさ」一般でなく、「『男らしさ』の呪縛の窮屈さ」から脱却する（その意味で「生きやすさ」を求めること）という点に絞って考えても、&lt;strong&gt;5-1&lt;/strong&gt;で述べたとおり、それ自体が女性にとっての抑圧解消にプラスだと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、森岡さんの言う「草食系男子」には、「ジェンダー平等を訴えるフェミニズムの主張を、自分たちの安寧を脅かす目障りな存在として、バッシングの対象」にする人は、少なくとも平均的男性に比べれば、少ないと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、フェミニズムについてよく理解している人は、草食系男子の中でもごく一部でしょうから、バッシングをする人が全くいないわけではないでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、たとえば、彼女が自分の部屋に来たからといって、襲ったりせずに、「したい」と口に出して合意を求める人は、セックスにおける「合意」を説くフェミニズムに反発を覚えることは少ないでしょう。むしろ世間の一部の常識に抗して自らの女性とのつきあい方を正当化してくれるものとして、フェミニズムを歓迎する場合もあるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原由美子さんの言う「男はつらいよ型男性学」についても、森岡さんの言う「草食系男子」と同様のことが言えます。すなわち、私が「&lt;a href=&quot;http://genchi.syoyu.net/category-7/2.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題提起を&lt;/a&gt;」（拙ブログ「社会の片隅から」2019年10月2日）で述べたように、江原さんの言う「男はつらいよ型男性学」は、女性差別をテーマとはしておらず、ジェンダー平等に結びつく上では大きな課題を残しているとはいえ、フェミニズムとは親和的なものであり、ジェンダー平等とは真逆の方向の動きと呼応してしまいがちだということはない、と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;7　「男らしさ」に乗らないことは必ずしも「生きやすい」「利己的な」選択ではない――彼らを応援した森岡さんの著書の意義&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つ述べておきたいのは、「男らしさ」から降りる(乗らない)こと自体、必ずしも「生きやすい」、「利己的な」選択ではないということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、草食系男子は、「肉食系男子」のように、単純に女性を追い求めて言うことを聞かせればいいのではなく、女性との間に合意を作っていく必要があるからです。「民主主義とはめんどうくさいものなんだ」ということは、この問題にも当てはまります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、Aさんは、女性と親密な関係になるのも「短期間では難しいと思います。何かを決めなくてはいけない場面を二人で何度も共有して、そのつど問題をクリア」[b:79]することが必要だと語っています。Aさんは、「合意して決めるべきところと、自分で決断すべきところを線引きするのは、いまでも難しい」[b:77]とも言います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二には、草食系男子の恋愛のしかたは、社会の主流の恋愛規範と抵触しているので、そのために起きる困難があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは、社会からの視線です。森岡さんは、草食系男性は「自分たちが草食系であることを肯定していることが多いが、同時に、社会からは侮蔑の目で見られることがあるのを知っており、そのことを悩んでいる者もいる。マスメディアやインターネットの言論においては、草食系男子に対する男性からの批判の言葉が多く聞かれる」と指摘しています[c:25]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つは、社会で主流の恋愛のあり方との矛盾による、女性との恋愛の上で生じる困難です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした彼らの恋愛を応援するために、森岡氏は『草食系男子の恋愛学』（メディアファクトリー 2008）を書き、彼らと出会いたい女性のために『最後の恋は草食系男子が持ってくる』（マガジンハウス 2009）を書きました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;8　森岡さんが言う「草食系男子」の増加は立証されていない――この点で「フェミニズムの勝利」か疑問が残る&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、私も、草食系男子の登場を、森岡さんが「フェミニズムの勝利だ」と評していることに対しては、別の理由から疑問を持っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その理由は、「草食系男子」が増えている根拠が明確でないことです。森岡さん自身、草食系男子が増加したと述べている新聞や雑誌の記事には、多くの場合「それを裏付ける資料は掲載されてい」ないと指摘しています。森岡さん本人も、データとしては、20代男性の殺人件数の減少という極めて間接的なデータしか挙げていません[b:54-57]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森岡さんの場合は、「草食系男子」をより独自に特徴づけていますが、そうした男性が増えたかについては、なおさらはっきりしません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久真八志（くまやつし）@okirakunakumaさんは、twitterで、森岡さんの本は、そういう男性が本当に近年増えたのか論じるところにはほとんど焦点がない。フェミニズムの影響云々は、森岡さんがフェミニズムの影響下で考えたことを投影したような混線した印象があるという趣旨のことを指摘しています(2020年1月16日午後2:33)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、「草食系男子」という言葉を作った深澤真紀さんが挙げる彼らの特徴も、セックスにガツガツしない、「雑魚寝」をしても手を出してこない、女子のことも「人間」として見ていて、男女の間でも友情が成り立つ、といったことなので、森岡さんの定義とある程度、似ています(注5)。そうした「草食系男子」が広く話題になったことは、男性の行動の何らかの変化を示している可能性が高いでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、森岡さんの「草食系男子」論はフェミニズムとの関係を重視しているので、「男性が女性を追い求めリードする」という規範が変化したか否かが、重要だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その点について、田中俊之氏は、2015年段階においても、若い男性について「むしろ、注目しなければならないのは、何が変わっていないか」であり、「ほとんどの若者は告白やプロポーズといった重要な決断は男性からするべきと考えて」いるなど、「『男がリードする側／女はリードされる側』という図式がまったく崩れていない」ことを強調しています（『男がつらいよ』KADOKAWA　2015、p.149、209-210)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした点を含めて、若い男性の変化をどうとらえるかは、まだ十分研究されていないのではないかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;9　「美味しいとこ取り」をどう考えるか&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森岡さんの言う「草食系男子」やその「男らしさ」からの脱却は、ジェンダー平等に向けて前進したものであることについては、&lt;strong&gt;7&lt;/strong&gt;で述べたとおりです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、私も、前川さんが「美味しいとこどり」の問題を提起したことは意義があると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんは、「美味しいとこどり」を、「自身は男性役割や男らしさの規範から逃れながら、女性には相変わらずこれまで通りのジェンダー規範を求める」ことと説明しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんも引用してる先述のAさんが、「自分の感じている違和感が、男に対して無条件に期待される『男らしさ』によるものだと分かってくると、今度は『女らしさ」によるしんどさが女性にあることにも気づきました」と述べていること自体、「男らしさ」による抑圧への気づきと「女らしさ」によるそれとが、相対的には区別できることを示しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;9-1　森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」についての定義や考察の対象が少し異なるのでは？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、前川さんの「『男らしさ』（の束縛）からの脱却」の定義には、森岡さんとは異なる面があると思います。森岡さんは、草食系男子の中に「男女平等思想」があると認識していて、実際、森岡さんがインタビューした彼らの「男らしさ」に対する抵抗感の中には、「男女平等思想」によるものも含まれているように思います。それに対して、前川さんは、「『男らしさ』からの脱却」を、森岡さんと異なり、「生きやすさ」「心地よさ」にストレートにもとづいたものとして理解しており（実際、先述の久真八志さんは、前川さんの「『男らしさも恋愛も面倒』という、いわば利己的な理由だけで『草食化』した男性たち」という記述について、「ここにまた新しい(そして実在も疑わしい)草食系男子の定義が生まれてしまった」と述べています）、草食系男子の中の男女平等意識については、あくまでジェンダー平等社会に貢献する「可能性」レベルのものと理解しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その点と関連しますが、森岡さんは、主に恋愛中の男女のコミュニケーションや同意の問題に焦点を当てています。それに対して、前川さんは、労働における性別分業に注目しています。この点について、私は、男女のコミュニケーションや同意の問題については、男性役割と女性役割が表裏一体となっている面が大きく、「男らしさ」からの脱却がストレートに女性に対する抑圧の解消につながる（ただし、そのぶん男性側に男女平等意識が要求される）面が大きいと思います。それに対して、労働の問題は、男性の長時間労働・過労死や、競争原理に駆り立てられるといった問題は、女性の被差別状況や家事負担の問題とは、根底的には関連しているとはいえ、それほど表裏一体ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように森岡さんと前川さんは、「男らしさ(からの脱却)」の定義や考察の対象が少し異なるように思います。前川さんの問題意識にきちんと応えるためには、森岡さんの調査・研究とはまた別のものが必要されるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;9-2　「美味しいとこ取り」とそれに対する対応についての私なりの考察&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下では、とりあえず今の時点で、私なりに、「美味しいとこ取り」の問題について、考えたことを述べてみます。その際には、できるだけ森岡さんの調査や考察を素材にしてみました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、「美味しいとこ取り」の中には、以下のようなパターンがあるように思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、森岡さんの「男らしさ」の定義の中の「女性を制圧し保護する」ことのうち、「制圧」は放棄しないままに、「保護」だけを放棄するパターンです。昔から、収入は妻に頼りつつ、家事はせずに、むしろ家族に暴力をふるうような男性はいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Cさんは、先述のように年上の女性に引っ張ってもらうことを望んでいます。Cさんは、「仕事において出世欲のようなものはほんとうにないですね。もっとスキルアップしなきゃとか、稼ぎたいとか、考えただけで疲れる」[b:95]とも言っています。それゆえ、Cさんは、「家事は分担する」「彼女がすごいキャリア志向なら、僕が仕事を辞めて主夫をしてもいいかな」と言っています。しかし、もしCさんが実際には家事をしなければ、上のパターンに少し近い状況になります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、そうした男性にはお相手が見つかりにくいですし、たとえ見つかっても離婚される可能性が高いでしょう。性差別が解消されるにつれて、そうした男性が存在する余地は減ってきました。しかし、今日の社会では、まだ男性に家事をすることを求める規範は弱く、女性の離婚の権利も十分保障されていないので、個別にはそうした状況が生じる基盤は失われていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、全体としては草食系で、たとえば女性をリードすることを負担に感じて、女性との話し合いによって物事をすすめる男性でも、家事・介護労働は女性に押しつけがちな人もいるでしょう。先述のように、話し合いや合意をすることにも面倒くささはありますが、それより家事や介護という労働をする方が、ずっと手間も時間もかかるので、そういう中途半端な男性は多いと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い換えれば、「コミュニケーションにおける性別役割」を解消するより「労働における性別役割分業」を解消するほうが、男性にとってハードルが高いので、前者は解消しながら、後者は解消しないということが、それほどは矛盾を露呈せずに、できてしまうということがあります。先述のDさんの考えが今のままだと、そうなる可能性があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のような2つの状況が、「美味しいとこどり」として、比較的ありうることではないかと思います。第一の状況は、「草食系男子」や「男らしさ」の特徴のうち、自分が楽になる面だけを取るパターンです。それに対して、第二の状況の場合は、第一の状況ほど「美味しいところ｣ばかり取っているわけではないですが、より困難な部分は回避するというパターンです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、全社会的に見れば、女性役割が残るかぎり、男性役割も残らざるをえません。ケアの問題に関して言えば、ケア役割のジェンダー平等（その中には、ケアの社会化とその際の他職種との同一価値労働同一賃金も含まれます）なしには、女性は、男性と対等な経済的・社会的な力を獲得できないので、そのぶん男性には独自の規範や役割――女性を支配し保護する規範と役割が残らざるをえません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上で述べたうちの第一の状況は、夫が家事をしなくても妻も経済力を持てる一部の「恵まれた」状況（女性が男性同様に正社員になれて、家事は母親がしているなど）の男性だけが可能で、かつ不安定なものです。第二の状況は、妥協的なもので、Dさんの事例で見たように、矛盾をはらんだものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり「『男らしさ』からの脱却」も「生きやすさ」も、それを本当に実現しようとすれば、男性もケア役割を担い、ケア労働者の権利を保障する社会をつくらなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、それをめざすには、第一に、高度に全社会的な視点が必要とされると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
直接自分の利益になる「賃金を上げる」ことも、それを職場で実現するには、運動をする手間も時間もかかりますし、差別される危険もあります。狭い意味での利己的な人にはできないことです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性が「『男らしさ』からの脱却」や「生きやすさ」を本当に実現するには、そのうえに、女性に対する「特権」も放棄しなければなりませんから、より高度な、より社会的な視点が必要です。そうしたことを、家族の中の無償のケア役割を担うような実践に結びつけるには、究極的には「自分のため」になる社会変革であっても、強い信念が必要なように感じています。また、「男らしさ」や競争原理からの脱却を、何のために生きるのか、といったことにまで深める必要もあると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、家族の中での無償のケア役割を担うためには、たんに「自分のため」だけでなく、しっかりと女性の身になって考えるということも、必要でしょう。ジェンダー平等についての理念や理論、歴史を深めることも、力になるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダイアン・グッドマンは、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、(1)被抑圧集団の人々への「共感」、(2)平等、他者の苦痛の緩和といった「道徳的原則、宗教的価値観」、(3)被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分類しています。男性である自分の「生きやすさ」は(3)の「自己利益」に属します。女性の身になって考えるということは(1)の「共感」に属します。ジェンダー平等についての理念や理論、歴史を知ることは、(2)の「道徳的原則、宗教的価値観」を深めることでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グッドマンは、第一に、(1)～(3)のそれぞれのモチベーションをより高度なものに育成すること、第二に、(1)～(3)を組み合わせることを説いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「美味しいとこどり」にならないためには、第一に、上の(3)「生きやすさ」の追求という視点をより高度なものに高めることとともに、第二に、(1)(2)のような視点を加味することが必要だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;10　草食系男子にどう訴えるか&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんは、最後に、草食系男子への訴えをしておられるので、私もこの問題を考えてみました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;10-1　歴史を踏まえた訴え&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前川さんは、男子普通選挙権を例に挙げて、人権や平等という概念が対象範囲を広げてきた歴史を踏まえて、私たちもその恩恵を得ているのだから、今後はジェンダー平等な社会を目指すべきことを訴えています。この訴えは、筋が通っています。実際、今の社会でも、自分たちが他者の運動の恩恵を得る一方で、自分たちの活動が他者にもプラスになっているという連帯は、あちこちで実現されていると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私でしたら、近代史から説くとしたら、戦後改革の際の女性の参政権獲得を例に挙げて、そのとき、社会が良い方向に変わったことを述べて、今後も、女性の人権獲得は、社会をよくするためには必要ではないか、と訴えると思います。これも、歴史を踏まえた訴え方だと思いますし、私自身の確信でもあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、より具体的で、よりリアリティがあり、もっと自分自身の経験を加味した訴えにしなければならないとも思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;10-2　とくに草食系男子に焦点を当てた訴え&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私は、とくに草食系男子に焦点を当てた訴え方も必要だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点では、やはり森岡正博『草食系男子の恋愛学』の意義が大きい。森岡さんは、同書の第1章で「女性に集中し、話をよく聴くこと」、第2章で「女性の『身』になって考えること」を詳しく論じていますが、これらは、草食系男子の持つ素朴なジェンダー平等志向に着目して、それをさらに発展させるものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、『草食系男子の恋愛学』の不足点として、前川さんは、家事・育児・介護などのケア役割の多くが女性に課されている問題についての記述が乏しいことを指摘しました。千田有紀さんは、同書には、妊娠や出産に関して「男性の傍観者的なスタンス」があることを指摘しています（「&lt;a href=&quot;http://yukizoudesu.blog44.fc2.com/blog-entry-37.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;草食系男子の恋愛学」&lt;/a&gt;千田有紀のTokyo日記2009-05-13）。草食系男子に対する訴えについては、前川さんや千田さんが指摘したような点を加えることは必要だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がもう一点指摘するとしたら、&lt;strong&gt;5-1&lt;/strong&gt;で述べたように、草食系男子の中には、恋愛に熱が上がらない、一人が気楽でいいという志向もあるのですから、一人でいることの意味について説いて、そうした志向をサポートすることも必要ではないかということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;10-3　とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴え&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とくに「美味しいとこどり」の問題に対応した訴えとしては、草食系男子の素朴な男女平等意識との矛盾を突くような訴え方もあるかもしれません。たとえば、女性に嫌がられることはせず、お互いの意思疎通を重視する一方で、「子どもができたら、奥さんに子どもの側にいてあげてほしい」と述べているDさんに対しては、次のような訴えも必要ではないかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、女性がいったん仕事を辞めて再就職する場合の難しさ、条件の悪さはご存知ですか？　パートナーの方が「仕事を辞めたくない」と嫌がったり、「やっぱり仕事を辞めないほうがよかった」と後悔したりすることにならないようにしてください。こうした仕事や家事のあり方についても、パートナーの方にも、言いたいことを言ってもらって、意思疎通を進めてください。それから、もしパートナーの方が経済的にあなたに頼らないと生きていけないことになったら、言いたいことも言えなくなるような関係になることもあります。あなたには家事能力があって、料理もお好きだということを生かしてはいかがでしょうか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;おわりに&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初の問題意識に戻ると、私の場合、前川さんに比べて、以下の点で、男性が自らの性別役割から脱却することや自らの解放とジェンダー平等との関係について、より密接な関係として捉えているように思います。&lt;br /&gt;
・「草食系男子」における「男らしさ」からの脱却とジェンダー平等とをより深く関連したものとして考えていること&lt;br /&gt;
・「美味しいとこどり」が矛盾をはらんだものであり、社会全体としては不可能だと考えていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、両者が同一でないことは、前川さんと同意見であり、より深く探求していかなければならないと考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、「草食系男子」と言われる現象については、学問的な調査自体が少ないと思います。私自身にはその力はありませんが、社会的に話題になっているのですから、そうした調査が広く行われてほしいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;注&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
(注1)昨年私が発表した「&lt;a href=&quot;https://www.jstage.jst.go.jp/article/arws/40/0/40_27/_pdf/-char/ja&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;最近の男性学に関する論争と私&lt;/a&gt;(PDF)」でも、女性解放とメンズリブは完全に表裏一体の活動ではなく、相対的に独自の活動である面があると同時に、根本的には深く関係していることを論じました（p.35-36）。&lt;br /&gt;
(注2)日比野英子監修、永野光朗・坂本敏郎編『心理学概論』(ナカニシヤ出版 2018)によると、「外発的動機づけ」が「賞賛、叱責、報酬、罰など、外的な要因によって行動が引き起こされている場合」であるのに対して、「内発的動機づけ」とは、「行動すること自体が目的となっている場合」を意味します。中島義明ほか編『心理学辞典』(有斐閣 1999)は、「内発的動機づけ」について、「個々の立場により多少の差異はあるが、大まかには、『その動機が引き起こす活動以外の賞に依存しない動機づけ』として、内発的動機づけを捉え」るとしています。また、wikipediaからの孫引きですが、美濃哲郎、大石史博編『スタディガイド心理学』(ナカニシヤ出版 2012)によると、「外発的動機づけ」が「義務、賞罰、強制などによってもたらされる動機づけ」であるのに対し、「好奇心や関心によってもたらされる、賞罰に依存しない行動」だといいます。&lt;br /&gt;
(注3)もちろん男女平等思想の影響は、男性だけでなく、女性にも及びますから、女性の行動が間接的に男性に影響を与える面もあるでしょう。たとえば、草食系男子の特徴の一つとして、「傷つくこと、傷つけることが苦手」という点がありますが、男性が恋愛関係で「傷つく」場合というのは、相手の女性が、男性の言いなりでなく、何らかの形で自己を主張するからだと考えられます。こうした間接的な形でも、男女平等思想は影響するでしょう。&lt;br /&gt;
(注4)ある人が抱く「窮屈さ」「生きやすさ」「心地よさ」といった感覚も、その人が「男女平等思想」を持っているか否かで異なってくるので、フェミニズム思想と完全に切り離しては考えられない面もありますが、ここでは、何らかの抵抗感が読み取れる個所を見てみます。&lt;br /&gt;
(注5)深澤真紀『平成男子図鑑』(日経BP社 2007)p.125-134。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-7/4.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>拙稿に対する西井開さんの批判に応える</title>
      <description>&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;strong&gt;遠山日出也&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
『女性学年報』40号(2019年)に掲載した拙稿「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://www.jstage.jst.go.jp/article/arws/40/0/40_27/_pdf/-char/ja&quot;&gt;最近の男性学に関する論争と私&lt;/a&gt;(PDF)」に対して、2020年1月９日、西井開さんからtwitterでご批判をいただきました（&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://twitter.com/kaikaidev/status/1215121143926902784&quot;&gt;ご批判を含む西井さんの一連のツイート&lt;/a&gt;)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西井さんは、『現代思想』2019年2月号に、「痛みとダークサイドの狭間で : 『非モテ』から始まる男性運動」という、理論的・実践的に斬新な報告をお書きになった方です。また、「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://www.facebook.com/RDFM0625/&quot;&gt;Re-Design For Men&lt;/a&gt;」というグループの代表としても活動しておられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西井さんの拙稿へのご批判は2点あります。以下、それぞれについて応答させていただきます。それぞれについて、まず、最初に太字で要点をまとめています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;批判１：階級支配の視点を「持ちすぎた」ら、性支配の問題は矮小化される。&lt;br /&gt;
　&amp;rarr;拙稿は、階級支配（や社会全体の抑圧）と性支配と間には密接な関連があるから、前者の克服のためにも後者の克服が必要であることを主張しているので、性支配の克服の必要性はいっそう強調される。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙稿に対する西井さんのご批判の一点目は、以下です。&lt;br /&gt;
「江原由美子がマルクス主義フェミニズムへの危惧として書いたように、階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまうことがあると思う。階級的な問題がなくなれば男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか、という」（&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://twitter.com/kaikaidev/status/1215121149132079104&quot;&gt;西井さんのツイート&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、西井さんは、江原由美子氏が、マルクス主義フェミニズムへの危惧として上のようなことを書いたと述べておられますが、私は、まだ、江原氏がそのように書いている文献や、そのように要約できるような議論をしている個所は探し当てられていません&lt;a href=&quot;#731&quot;&gt;(1)&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、とりあえず、ここでは、拙稿に対する「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」という文言のみにもとづいて、そうした危惧について、私の考えを述べさせていただきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、もし「階級支配という視点を持ちすぎた場合、男性による性支配の問題が矮小化されてしまう」としたら、それは、何らかの意味で、両者を「あちらを立てれば、こちらが立たず」というふうに、相反するものと捉えているからだと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ひょっとしたら、両者を単純に並列的に捉えている場合も、場合によっては、そうした事態が起きるかもしれませんが、これは回避することが可能でしょう。もし必然的にそうなるとしたら、重層的な差別に取り組むことができなくなりますから&amp;hellip;&amp;hellip;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかも、拙稿は、単に「性支配だけでなく、階級支配の観点を入れる」ことを主張しているのでなく、随所で両者の密接な「関連」を主張しています。その関連というのは、「性支配は、階級支配の強化、ひいては社会全体のさまざまな抑圧の強化と密接に結びついている」(p.35)ということであり、それゆえ「性支配を克服することは、階級支配からの解放、さらには、社会全体の解放につながる」(p.37)ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両者の関連性を上のように認識していれば、階級支配を本当に克服しようとすればするほど、性支配も克服しなければならないことがわかりますので、上のような危惧は、当たらないと考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点については、拙稿で、私自身の経験としても、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」、「女性が完全な自由を獲得することなしに、プロレタリアートは完全な自由を獲得することはできない」と認識するようになったことで、ピンと来なかったり抵抗を感じたりする女性の要求に関しても、以前よりは受け止める姿勢が強まったことや、運動に継続して参加できるようになったことを述べています(p.29)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、江原氏の著作は非常に多いので、私が読んでいないものも多数あります。もし江原氏が上記のような危惧を示された出典をお教えいただければ、そこに、そうした危惧のより詳しい根拠が書かれているかもしれませんので、その根拠を含めて検討させていただきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、階級支配と性支配との関係をどう捉えるかは、拙稿でも触れたように、マルクス主義フェミニズムの中においてさえ、「二元システム論」と「統一理論」との論争としてあらわれているように、それ自体が大きなテーマです。ひょっとしたら、西井さんは、この点について、拙稿にあまり同意しておられないのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の拙稿は、性支配と階級支配との関連性を立証すること自体はテーマにしていませんが、私が、両者の関連を以下のように認識していることは述べています。&lt;br /&gt;
　・日本は欧米に比べて、女性の権利も、労働者の権利も、劣悪な状態にあり、その両者の状況には関連があると思う(p.28-29)。&lt;br /&gt;
　・[家父長制を支える]カップル単位制（家族賃金制度）はトータルに見れば資本の搾取を強化する役割を持っている(伊田広行『性差別と資本制』より)(p.33)。&lt;br /&gt;
　・「長時間労働や過労死は階級支配と性支配（家父長制的男性性）の両方から生まれるのであり、その両者が相互に結びついている」(p.33)。&lt;br /&gt;
　・1980年代以後、新自由主義によって階級支配が強化されたが、それは性支配の温存・強化を組み込んでいた(p.34)。&lt;br /&gt;
　・日本には女性経営者が極めて少ないという性支配の強さと、過労死を生むような階級支配の強さとは関連があると思う(p.34)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、より広い問題である、性支配(の克服)と社会全体の抑圧(解放)との関係については、私は、以下のように認識していることも述べています。&lt;br /&gt;
　・今日より多くの男性が、より高い下駄をはかされていた戦前は、男性にとって良き時代だったどころか、あらゆる人権が抑圧され、膨大な戦死者を出していた時代だった。つとに伊藤公雄氏は、ファシズムは、〈男らしさ〉の革命であったことを明らかにしている。(p.33)&lt;br /&gt;
　・スウェーデンでは、単に女性の地位が高いだけでなく、労働者、パートタイマー、高齢者、障害者、在住外国人、性的マイノリティの地位も高く、「デモクラシーの実験室」と呼ばれていることは、性支配の克服とさまざまな抑圧からの解放との間には関連があることを示唆している(p.36)。&lt;br /&gt;
　・男性による女性支配と人間による自然支配とが結びついていることを批判するエコロジカル・フェミニズムは、女性解放や性別分業の克服なしには、人間の生存基盤である自然を守ることもできないことを指摘している(p.37)。&lt;br /&gt;
　・憲法24条に対する攻撃は、憲法9条や他の人権条項に対する攻撃と不可分なので、それらに対抗するためにも、24条の理念を実現すべきであることが、多くの視点から説かれてきた(p.37)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、西井さんが拙稿の上のような認識について異論や反証をお持ちでしたら、具体的にご指摘いただくと、議論が深まると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、「階級的な問題がなくなれば、男性たちはジェンダー平等に向かわなくなるのではないか」という危惧についてですが、私は、階級的問題とジェンダー問題の片方だけをなくすことはできないと考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点は、日本の社会運動の教訓としても言えることだと思います。たとえば、竹信三恵子氏は、1986年の男女雇用機会均等法の制定当時の労働組合の多くが、「家族を養う」ことを目標にしていたために、残業規制にさほど関心を示さなかったことを指摘しています（『家事労働ハラスメント : 生きづらさの根にあるもの』岩波書店 2013、p,32）。また、伊田広行氏は、つとに、男性中心の労働組合が、シングル単位視点を持てなかったことが、今日の無権利な非正規雇用の蔓延を招いたことを指摘しました（『21世紀労働論：規制緩和へのジェンダー的対抗』青木書店 1998）。これらは、いずれも、当時の労働組合にジェンダー平等の観点が弱かったために、労働時間や非正規雇用についての資本の専横を規制できず、今日では、それによって、男性を含めた多くの労働者が苦しんでいるという教訓になると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、社会の一部の個別的状況については、階級とジェンダーの片方だけを解決した（ように見える）場合もあると思います。たとえば、西井さんの危惧とはある意味で逆の例ですが、外国人の家事労働者の導入によって、女性の家事負担の問題を解決したという話ならば、少なくない国にみられるでしょう。もし西井さんがそうした状況に対する危惧をお持ちでしたら、具体的な議論をしていきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;批判２：階級支配という視点を入れることで、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」（抑圧集団と被抑圧集団の相違を無視して経験の類似性を強調しすぎること）に陥る危険が生じる。&lt;br /&gt;
　&amp;rarr;(1)階級支配の視点からは、たしかに「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生じるが、拙稿は階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているので、「女性は、男性同じく階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさもある」という認識になる。&lt;br /&gt;
　(2)グッドマンの指摘は、被抑圧集団の経験に共感する際の落とし穴についてのものである。拙稿が階級支配と性支配の関連を述べたのは、女性に共感する手法としてではなく、性支配の克服が自らの利益にもなることを説くためなので、その点を認識することによって、むしろそうした落とし穴を回避する努力も強まる。&lt;br /&gt;
　(3)拙稿は、男女に共通した階級支配を言うことは、男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがある――たとえば、日本の女性の雇用労働時間も欧米の男性に比べて長時間である――ことを過少評価しなくなるためにも重要であることも述べている。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙稿に対する西井さんのご批判の二点目は、以下です。&lt;br /&gt;
「また、階級支配という視点を入れることで男性たちが主体的にジェンダー関係の変革に向かう、という実践的意義が触れられているが、本文でも引用されているダイアン・グッドマンの『真のダイバーシティをめざして』の中で紹介されている「同一視のパラドックス」（優位集団が劣位集団との相違点やそれが起きる社会的文脈を無視して経験の類似性を強調しすぎること）が起きる危険性―「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」と考えること―にも注意すべきと思った。（これは遠山さんも危惧されている）。」（&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://twitter.com/kaikaidev/status/1215121150428139520&quot;&gt;西井さんのツイート&lt;/a&gt;）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（1）たしかに（大多数の）男性も女性も階級的には被支配階級だと認識すれば、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という認識は生まれます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、まず前提としてご確認いただきたいのは、拙稿は、階級支配と性支配の「二段構え」で問題を考えることを主張しているということです(p.34-35)。ですから、拙稿からは、「女性は、男性同様に階級的に支配され生きづらいうえに、性的に支配されている生きづらさがある」という認識が出てきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（2）次に、グッドマンが指摘する「同一性のパラドックス」の危険性と拙稿の内容との関係について述べます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙稿の「おわりに」でも述べているように(p.40)、ダイアン・グッドマンは、&lt;i&gt;Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups&lt;/i&gt;（邦訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』）の中で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、1.被抑圧集団の人々への「共感」、2.平等、他者の苦痛の緩和といった「道徳的原則、宗教的価値観」、3.被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分類しています(p.122、邦訳p.181)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グッドマンが、「同一視のパラドックス」の危険性を指摘しているのは、上記の1.の「共感」に潜む落とし穴、すなわち、「マジョリティの人々に対して、マイノリティの人々の経験に共感させようとする場合」の注意点を述べるためです(p.138、邦訳p.204-205)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対して、私が性支配と階級支配との関連を述べたのは、なにも、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に「共感」する手段としてではなく、男性が性支配を克服することが、自らの階級的抑圧を克服するためにも必要であることを主張するためです。すなわち、3.の「自己利益」というモチベーションを喚起するためです&lt;a href=&quot;#732&quot;&gt;(2)&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上でグッドマンが指摘しているように、マジョリティとしての男性がマイノリティとしての女性の経験に共感しようとする際には、「同一視のパラドックス」を含めた、さまざまな「落とし穴」があるわけですが、その落とし穴にはまらないようにするためには、それなりの努力が必要です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、ご承知のように、グッドマンは、「同一視のパラドックス」の一例として、白人が「黒人が、自分以外が全員白人である場に1人だけいるという状況」について考えようとする場合、その白人が「自分も他の人が黒人である場に、たった1人、白人として参加したことがある」という経験にもとづいて、その居心地の悪さや疎外感を語るという事例を挙げています。グッドマンは、前者の状況と後者の状況には違いがあるにもかかわらず、それを無視することを問題にしているわけです。こうした「同一視のパラドックス」を克服するためには、単に自分の経験を思い出すだけではなく、当然、黒人が置かれた被差別状況について、いろいろと学ぶ努力が必要になると考えられます。男性と女性の場合も同じでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした努力をするモチベーションを高めるためには、「男性が性支配を克服することが、自らの階級的被抑圧状況を克服するためにも必要である」ということを理解することが一つの力になると思うのです。ですから、むしろ、拙稿の認識は、ご指摘の「同一視のパラドックス」にも陥る危険性を防ぐ力にもなると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（3）また、私は、「男女は同じように階級的に支配され生きづらい」という側面を認識すること自体も重要だと思います。これは、拙稿で「二段構えで考えることの第二の実践的意義」として述べているように、「男性特有に見える「生きづらさ」を言う際に、女性にも同様の質の生きづらさがあることを過少評価しなくなる」(p.35)ためです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙稿でその例として挙げているのは、「日本の女性は、日本の男性よりも週労働時間が8時間前後短いにもかかわらず欧米主要国の男性よりも長時間働いている。このことは日本ではフルタイム労働者は女性も働きすぎであることを意味する」「女性の場合は、多くの場合、その上に性差別の産物である家事労働時間の長さが加わるので、非常に深刻な状況になる」ということを見逃しにくくなる、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にも似たような例は挙げられるでしょう。たとえば、自殺率は、男性の方が女性よりずっと高く、また、日本の男性の自殺率は、国際的に見ても高いわけですが、日本の女性の自殺率も、男性に比べれば低いにもかかわらず、国際比較をすれば、むしろ男性より順位が上です(舞田敏彦「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://tmaita77.blogspot.com/2018/08/blog-post_20.html&quot;&gt;日本の女性の自殺率&lt;/a&gt;」データエッセイ2018年8月20日)。自殺率は、階級の問題だけでなく、ジェンダーを含めたさまざまな社会全体の抑圧が反映していますが、上と同様のことが言えると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;拙稿では展開できませんでしたが、性支配と階級支配との関連を捉えることは、「女性活躍」など、現在の新自由主義的な資本主義の女性活用政策や男性ジェンダーに関する政策に対してきちんと対峙する上でも重要ではないかと思います。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナンシー・フレイザーは、「第二波フェミニズムは、ネオリベラリズムという新精神に、鍵となる成分をはからずも提供したのではないか」と述べて、第二波フェミニズムと新自由主義の親和性を問題にしました（ナンシー・フレイザー著、関口すみ子訳「フェミニズム、資本主義、歴史の狡猾さ」『法學志林』109(1)、2011年）。菊地夏野さんは、フレイザーの議論を日本に紹介しつつ、フレイザーの主張は女性運動が一定の支持や広がりを得ているアメリカ社会だからこそ成立する批判であると述べ、日本では行政や企業がフェミニズムと見紛うようなメッセージを発して政策や施策をおこなっていることに注目して、近年の日本のジェンダーに関する法制（均等法、男女共同参画社会基本法、女性活躍推進法）などを検討し、日本における「ネオリベラル・ジェンダー秩序」を論じました（菊地夏野『日本のポストフェミニズム：女子力とネオリベラリズム』大月書店 2019）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フレイザーの場合、上のような見地に立って、「社会主義フェミニズムの理論化を再生できたらと願う」と述べています。もちろんそれは「時代遅れとなった二元体制論を再活用」することではなく、「最近のフェミニスト理論の最良のものと、資本主義に関する最近の批判理論の最良のものとを統合」するということです（フレイザー前掲論文p.28）。また、菊地さんは、「新自由主義や植民地主義という概念で問題化される資本と国家の絡まった権力構造をフェミニズムが批判的に見据えることができていない」ことを問題にしています（菊地前掲書p.185）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした問題は男性学やメンズリブも無縁ではないと思います。というのは、メンズリブは、社会運動との関わり自体がまだそれほど強くないと思うからです。この点については、拙稿中でも、「『男らしさ』を押しつける社会構造自体を変革する(&amp;hellip;&amp;hellip;)社会的な働きかけがまだまだ手薄」だという、新聞記者の指摘を紹介したり(p.40)、かつてに比べて、「男性学においてさえ、労働運動に対する関心が弱まっている」(p.39)と述べたりしたところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、拙稿では引用しませんでしたが、海妻径子氏が、「今は、私は皮肉を込め『電通博報堂的メンズリブ』と呼んでいますが、イクメンプロジェクトやファーザリング・ジャパンの活動がファッショナブルな新ライフスタイルとして宣伝され、企業や女性活躍だとか、政権のお金も流れてスペクタル化しています。(&amp;hellip;&amp;hellip;)日本は、行政メンズリブがこれだけテコ入れしていながら、それに対抗する男性運動が展開できていない」（井上匡子・海妻径子・三浦まり・国広陽子「男性にとっての男女共同参画――フェミニストはどう見るか」『女性展望』692[2018年5-6月]号、p.4）と述べているのも気になるところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした状況と対峙するためにも、性支配や男性ジェンダーの問題と資本主義の問題とのかかわりは重視しなければいけないと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;注&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;731&quot;&gt;&lt;/a&gt;(1)江原氏は、『わかりたいあなたのためのフェミニズム入門』(JICC出版 1988)や『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房 1991)、『装置としての性支配』(勁草書房 1995)でマルクス主義フェミニズムについて批判的言及をしていますが、それらを見るかぎりでは、そうしたことは述べていないように思います。&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;732&quot;&gt;&lt;/a&gt;(2)ですから、私は拙稿について、「今回、私は、『共感』を出発点にしつつ、『自己利益』の観点を中心に論じた」(拙稿p.40)と言っています。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-7/3.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題提起を</title>
      <description>&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;&lt;strong&gt;遠山日出也&lt;/strong&gt;　　　　&lt;/div&gt;&lt;strong&gt;《目次》&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが&amp;hellip;&amp;hellip;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;1　江原氏による田中氏に対する批判の要約&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2　田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
　2-1　田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服&lt;br /&gt;
　2-2　男性の仕事中心の生き方についても、具体的な働き方の変革を主張&lt;br /&gt;
　2-3　田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的&lt;br /&gt;
　2-4　「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か？&lt;br /&gt;
　2-5　田中氏が変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か？&lt;br /&gt;
　2-6　男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性&lt;br /&gt;
　2-7　田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか？」――私の場合&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3　田中氏の考察の到達点を踏まえたうえでの課題の提起&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
　3-1　課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯&lt;br /&gt;
　3-2　男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識&lt;br /&gt;
　3-3　労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;おわりに――女性抑圧や男性性の否定的面と社会全体の抑圧との関連への注目も必要&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;はじめに――江原氏の基本的観点には共感するが&amp;hellip;&amp;hellip;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原由美子氏が、「&lt;a href=&quot;https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66706&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか&lt;/a&gt;」(現代ビジネス 2019.8.24)において、田中俊之『男がつらいよ　絶望の時代の希望の男性学』(中経出版編集、KADOKAWA出版、2015年）を批判した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も、江原氏が、「男のつらさ」に寄り添うことの意義を認めつつ、フェミニズムの観点から課題を指摘している点には共感する。また、江原氏の批判は、重要なポイントにおいて当たっている部分があると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、私は、江原氏は、田中氏の考察の到達点を十分把握しないままに、田中氏を批判している面がかなり大きいと考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏の到達点を踏まえたうえで批判や課題提起をすることは、田中氏の考察を十分に生かすためにも、議論をかみ合わせて、批判や課題提起をより的確なものにするためにも、必要であろう。そのことは、男性学とフェミニズムとの相互の連携を構築するうえでもプラスになると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本稿では、1で、江原氏の田中氏に対する批判を要約し、2で、江原氏の批判が田中氏の考察の到達点を踏まえていない点を述べ、3で、そのうえで提起される課題について述べたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;１　江原氏による田中氏に対する批判の要約&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、以下で、江原氏の田中氏に対する批判を要約しておこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、まず、田中氏の考え方を以下のように要約する：田中氏は、社会が変動したにもかかわらず、男性の生き方に対する社会的イメージには変化が生じていないというギャップに「男性のつらさ」の原因を求めている。田中氏が最も問題だと指摘するのは、「男性と仕事とのつながりが強すぎる」ことである。高度経済成長期とは違って、今日では男性でも非正規雇用が増大しており、正社員になれたとしても、昇進や昇給は期待できない。にもかかわらず、今日でも「男性は学校を卒業したら定年退職までフルタイムで働くべきだ」というルールが依然としてあり、その結果、フリーターや契約社員、無職の男性自身も、自らに対して否定的評価をしてしまう。それゆえ、男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作ることが必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対して、江原氏は、以下のように言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏の著作に代表されるこうした考え方を「男はつらいよ型男性学」と呼んでおこう。こうした議論は、ロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では男性よりも女性のほうが幸福度が高いが、主観的な幸福度の高さは、客観的な生活の質の高さを意味しない。男性は、客観的には女性よりもずっと良い条件にある「仕事」においても女性より満足感が低く、「家庭生活」や「配偶者との関係」においては女性よりも満足感が高いのに、女性ほど「幸せ」とは感じていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「男はつらいよ型男性学」が「男らしさイメージを変える」ことに希望を見出すのは、男性は個々の要因で見れば女性よりも「満足」してもおかしくないのに、「本来あるべき男性性」イメージに縛られて、「幸福」であると思えないでいるからだろう。しかし、そのような主張は、男性たちにどこまで受け入れられるのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「男はつらいよ型男性学」が問題にした「男のつらさ」は、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされた先進国の製造業男性労働者の「つらさ」と、ほぼ一致している。彼らは、失業や賃金低下・不安定就労化を余儀なくされた。この層の不満が爆発したことによって、移民排斥・自国第一主義が世界を席巻している。彼らは、本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りしていくものとして、国内のマイノリティにも反感をあらわにする（A.R.ホックシールド、『壁の向こうの住人たち』、布施由紀子訳、岩波書店、2018）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反感の背景にあるのが、「無意識化された特権意識」である。男性の「幸福度」が女性よりも低いのは、「自分の方が当然優先されるべきだ」と不満を感じているからではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしそうだとしたら、「男性が享受している特権」には注目せずに、「男性のつらさ」に焦点を当て、男性に呼びかけるという戦略は、この呼びかけに答える男性たちに、男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、「無意識の特権意識」を刺激してしまう可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性の雇用のあり方の変化と男性の生き方に対する社会的イメージのギャップに苦しんでいる男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」――それは「フェミニズム叩き」に繋がるかもしれない――ことの方が、ずっとわかりやすい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかも、田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は、社会的公正や平等などの価値観ではなく、「もはや社会が変わってしまったから」という外在的根拠であるにすぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、「仕事と結びついた男性性イメージを変えること」は、より根本的な「（男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった）男性性アイデンティティ」を維持したままでは、非常に困難である。「男性性イメージの変革」に向かうには、より強い動機付けが必要だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「男性のつらさに寄り添いつつ、男性アイデンティティを開いていく」ような男性学の展開を、期待したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;2　田中氏の主張に対する江原氏の理解の不十分さ&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、上述の江原氏の批判に対して、以下に述べていくような疑問を感じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-1　田中氏の主張の核心は、単に男性の生き方や男性性の「イメージを変える」ことではなく、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏の主張は「男の生き方のイメージを変えること」であり、「男の価値を仕事だけに求めるのではない男性の生き方のイメージを作」ることであると言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、そうしたイメージを変えることは、より根本的な「（男性は優遇されてしかるべきだ、男性は強くあらねばならない、といった）男性性アイデンティティ」を維持したままでは困難だと批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-1-1　たしかに田中氏は男性の「イメージ」という語を使っているが&amp;hellip;&amp;hellip;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに、『男がつらいよ』（以下、「本書」と言う）には、「理想の男性イメージと現実とのギャップ」の類を問題にしている個所がある(p.10,16,103)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、まず注意してほしいのは、田中氏は、「男の生き方のイメージ」を変えるとは言っていないことである。田中氏は、「自分の価値観や行動」(p.16)、「男性の生き方」(p.103)を変えると言っている。すなわち、頭の中の観念的な話ではなく、おおむね具体的な行動を言っているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、本書の中で、「イメージ」という言葉が使われているのは4か所(1か所で3回使っている個所があるので、回数は6回)だけであり、そのうち3か所は、「はじめに」と「おわりに」である(p.10,16,221-222)。本によっては、「はじめに」と「おわりに」の中に本全体のエッセンスが書かれているものもあろうが、本書の場合は、そうではない。「はじめに」の後で、議論が具体化され、深められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-1-2　田中氏の主張の核心は、「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの克服&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏が本書で男性性について最も強調しているのは、男性の価値を「他人と『競争』して勝利すること」(p.26)に置くということである。田中氏は、その問題点を、第1章「男性はなぜ問題をかかえてしまうのか」の冒頭から語っている。すなわち、競争しているがゆえに「他人との比較」を抜け出せず、しばしば人を蔑むが、見下される側は「とてつもなく迷惑」だし、「常に勝ち続けることなど不可能」なので「すぐに自分が蔑まれる番が回ってきます」(p.28-29)と。さらに、「男は強くなくてはいけない」という圧力によって、うつ病などにかかってしまい、「弱音を吐け」ないので、気分は楽にならない(p.36-49)など。第3章では、男性が「競争」をベースにした生き方をしていることが、恋愛・結婚認識や女性との関係にも問題を起こしていることが語られており(p.122,133,144-145)、最後の第5章「これからの時代をどう生きるか」でも、「競争」の弊害が強調されている(p.204-207)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、男性の「『競争』して勝利する」志向に対する批判が、本書全体のベースになっている。「『競争』して勝利する」志向は、伊藤公雄氏の言葉で言えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」(『〈男らしさ〉のゆくえ』新曜社 1993 p.167)のうちの、おおむね「優越志向」に相当するだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした田中氏の主張は、「男性性アイデンティティ」の、全部ではないが、重要な側面を問い直す主張だと言えよう。この点は、江原氏が「男性性アイデンティティ」の例として、田中氏同様、「男性は強くあらねばならない」ことを挙げていることを見てもわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-2　男性中心の働き方に関しても、単に「イメージ」でなく、具体的な働き方の変革を主張&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに江原氏が指摘するように、田中氏は「日本では、男性と仕事の結びつきがあまりにも強い」(p.7)ことは重視している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、田中氏が第2章「仕事がつらい」で説いているのは、男の生き方の「イメージ」を変えるというより、もう少し具体的な働き方の変革である。すなわち、田中氏は、長時間労働や会社が社員に「生活態度としての能力(生活のすべてを仕事に注ぎ込めること)」を求めることの是正を説いている(p.77-83)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、男性と仕事との関係についても、田中氏が主張しているのは、単に男性の主観的イメージを変えることではなく、男性の具体的な働き方を変革することである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-3　田中氏の主張は、女性差別がテーマではないが、フェミニズムと親和的&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏の主張について、「男性アイデンティティを強く呼び覚ますことになり、『無意識の[女性に対する]特権意識』を刺激し」て「フェミニズム叩き」と呼応してしまいがちだと批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、2-1で述べたように、田中氏は、男性アイデンティティを呼び覚ますのではなく、むしろ崩している。そして、その方向は、以下で述べるように、むしろフェミニズムと親和的な方向である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-3-1　2-1や2-2の内容はフェミニズムと親和的なもの&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏は本書で女性差別の問題を正面から論じているわけではない。しかし、以上の2-1や2-2の内容は、フェミニズムと親和的な性格を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、2-1で述べた男性性アイデンティティの克服に関して、その点が明確に表れているのは、田中氏が、「『協調』するよう教えられてきた女性は、人との共感を目的としたコミュニケーションを取る傾向がある」のに対して、「『競争』を基本として育てられてきた男性」は「一方的にまくしたて、相手を言い負か」そうとしがちだが、それではダメで、「相手の話をしっかり『聴く力』を身につけることが必要です」と述べている(p.47-49)個所である。これは、男性の「競争」志向・優越志向について、女性性と対比しつつ克服すべきことを説いたものと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏は、また、男どうしの間で、論戦ではなく「自分の思っていることを話し、それをしっかり聞いてもらえる」(p.199)ような会話ができる関係を作る試みについても語っている。この点は、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト・プレス 2015)でさらに発展させられ、男性どうしの友だちづくりを主張している(第3章)。これは、澁谷知美氏が『平成オトコ塾 : 悩める男子のための全6章』(筑摩書房 2009)第1章で「男の友情」を提言したことに近い。『〈40男〉はなぜ嫌われるか』では、また、田中氏は、男性は、若い女性に執着するのではなく、男女間の友情を育てることを述べる(第2章、第4章)など、既成の男どうしや男と女の関係を変える主張をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、2-2の労働問題に関しても、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、同時に職場からの女性排除や職場における女性差別をも生み出している問題である。それゆえ、それらを是正することは、ジェンダー平等にとっても重要な課題である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-3-2　結婚や恋愛をテーマにした章では、男女関係の平等化を主張&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、本書の第3章「結婚がつらい」では、田中氏は、恋愛が若者の義務になっていることや「男はリードする側／女はリードされる側」という図式、男性が女性を性的魅力や若さばかりで評価すること、性の二重基準などについて、それらが男性にとっても問題をもたらすことを述べつつ、批判をおこなっている。田中氏は、こうした直接男女関係をテーマにしている章では、男女関係の平等化を説いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この章でも、田中氏は、男性には「『競争』して勝つ」志向があるために、「男性は女性に謝れない」が、そうであってはならず、素直に謝罪すべきことを説くなど(p.132-133)、男性の「『競争』して勝つ」志向と女性に対する態度の関連を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の2-3-1、2-3-2より、田中氏の主張は、女性差別をテーマにはしていないが、フェミニズムとも親和的であることがわかる。そして、それは偶然ではなく、田中氏が「『競争』して勝利する」男性アイデンティティの克服を主張していることと関係している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏が男性に説いているのは、女性に対する男性の「無意識化された特権意識」を刺激する方向ではなく、むしろその逆の方向であると言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-4　「男はつらいよ型男性学」というネーミングは適切か？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、以上のことを踏まえると、「男はつらいよ型男性学」というネーミングが適切かどうか疑問である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに田中氏の主張は、男のつらさに焦点を当てている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、第一に、田中氏は「男が」と言っており、「男は」とは言っていない。江原氏自身も、現在は「男『が』つらい時代」だと述べつつも、なぜ男性学の型に対するネーミングでは、「が」を「は」に変えたかについて説明していない。男「は」というと、江原氏が述べているように、「男性の人生は（女性と比較しても）つらいものだ」という中の丸カッコ内の「女性との比較」というニュアンスが生じる。しかし、「が」という語の意味や田中氏の主張には、そのような比較はなく、単に「男であること」がつらいというニュアンスである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二に、「男はつらいよ」という名称には、「男はつらい」ことを自嘲したり、他者（社会や女性）に向けて訴えたりしているようなニュアンスがある。しかし、田中氏の本は、主に男性に向けて、自らを変えるように訴えているのであり――この点については江原氏も認識している――そうした言説とは異なる。他の男性学の研究も、全体として言えば、「男がいかにつらいか」を主張するというより、男のつらさを分析し、その対応を考えるものではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「男のつらさをテーマにした男性学」といった名称にしておいたほうが適切のように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-5　田中氏が男性性の変革を求める主な理由は「社会が変わってしまったから」か？&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏のような男性学は、「いわゆるロスジェネ世代以降の男性たちのつらさに、よく照準している」と述べているが、その点を、以下のような批判に結びつけている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(1)田中氏が男性性を変えるよう呼びかけても、「男性からすれば、『男性性を変える』ことよりも『男性の雇用をもと通りにする』こと――それは『フェミニズム叩き』に繋がるかもしれない――の方が、ずっとわかりやすい」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(2)田中氏が「男性性を変えよう」と主張する主な理由は「『もはや社会が変わってしまったから』という外在的根拠、『昔のような男性性を維持しても、メリットはない』という合理的根拠であるにすぎない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-5-1　たしかに田中氏自身がそうした主張を述べているが&amp;hellip;&amp;hellip;。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに田中氏は、「はじめに」で、現在は、従来のように男性が正社員として就職し、結婚して家族を養い、定年まで勤めあげるという「普通の男性」としての生き方ができなくなったことに、「多くの男性が『生きづらい』と感じる根本的な原因があります」(p.5-6)と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、本書全体の内容を見ると、田中氏の議論は、上の発言とは異なっている面が非常に大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-5-2　全体を読むと、田中氏は上の世代の男性の状況にも批判的&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、2-1で述べた「『競争』して勝利する」という男性性アイデンティティの問題や2-3-2で述べた恋愛や結婚の問題は、どう見ても、基本的には上の世代からあったものであり、ロスジェネ世代になって初めて生じた問題ではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、2-2の仕事や雇用の問題についても、田中氏は、団塊の世代の定年退職者が、それまで仕事一筋で生きてきたために、虚脱感や喪失感に悩んでいることを、「昭和的男らしさ」の問題として指摘している(p.91-94)。また、田中氏は、ある定年退職者の男性が、現役時代を振り返って「残念」だと述べたこと、すなわち、サラリーマンという「普通」の生き方しかできず、自分にはその程度の能力しかなかったのが「残念」だという気持ちを訴えたことを紹介して、「すべての男性が輝かしい業績を達成できるわけではない」以上、「『男らしさ』へのこだわりが、年齢にかかわらず男性の『生きづらさ』につながってしまう」と指摘している(p.202-204)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会問題という面から見ても、男性の雇用の非正規化が注目されたのこそ比較的最近だが、長時間労働や過労死に関しては1980年代には社会問題として注目されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上から見て、田中氏の主張は、上の世代の状況に関しても、全体的には批判的なものだと言えるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに低成長期になったことによって「『競争』の先にいる勝者はごくわずか」(p.51)になったといった変化はあろうが、それは部分的なものであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とすれば、田中氏としては、自らの考察は現代日本におけるジェンダーの根本問題についてであることを述べつつ、近年深刻さを増している面もあると主張したほうがよかったといえよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その意味で、江原氏の指摘は、田中氏の主張のしかたの弱点を突いていると思うが、田中氏の考察の到達点を踏まえるという面では弱点があると考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、田中氏が論じている男性の生きづらさの多くは、「男性の雇用をもと通りに」しても解決しないと思うし、田中氏が男性性の変革を求める主な理由が「社会が変わってしまったから」であるとも言えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-6　男性ゆえの困難についての認識における男性学の独自性と右派の方向性&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-6-1　男としての困難や苦労を重視することは、世間一般の認識にすぎない&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目せずに、「男のつらさ」に焦点を当てていることを問題にしている。後述のように、私も、「男性が享受している特権」に注目しないことは不十分であり、それに対する批判には根拠があると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、「男のつらさ」に焦点を当てることが、「『無意識の特権意識』を刺激してしまう可能性もある」という点については、どうだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、反リベラル派の男たちがマイノリティに反感を感じるのは「本来自分たちが得られたはずの富や特権を、弱者という名を借りて横取りして」いくからだと説明している。私が素朴に疑問を感じるのは、フェミニズムに対する「無意識の特権意識」にもとづく反感は、べつにつらい状況になくても起きるのではないか？　ということである。たとえ幸せであっても、「幸せを脅かす者」に対する反感が起きるのではないだろうか？　この点については、さらなる解明が必要だと思う。ただ、ネット右翼に関しては、それを貧困や不安定雇用と結びつける認識は、すでに実証的な調査研究によって否定されている(永吉希久子「ネット右翼とは誰か」樋口直人ほか『ネット右翼とは何か』青弓社 2019 p.23-24,34)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、男であるがゆえの困難や苦労を重視することは、男性学独自の主張ではまったくない。「仕事で苦労をしている夫を癒すのが、妻の役割です」といった形で語られる社会の一般通念であり、むしろ現状を肯定する文脈で語られる場合のほうが多いのではないだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしも「男がいかにつらいか」ということだけを訴えて、それに対して何の対応も語らない「男性学」があれば、「『無意識の特権意識』を刺激」することもありうるだろうが、田中氏らの男性学がそうしたものではないのは、ここまで述べてきたとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-6-2　男性学の独自性は、何らかの男性性についてのジェンダー平等の方向への変革にあり、右派とは方向性が逆&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性学の独自性は、一つは、男性自身が男性の困難を「つらい」と言ってもいいと認めることだろう。しかし、メンズリブは、世間一般のように、そうした訴えを女性たちに向けるようなことは基本的にしていない。メンズリブは、男たちの悩みに対して男たちが応答するために、ワークショップや「男性相談」に取り組んできた。田中氏の著作も、男性が男性たちに対して自らを変えるように訴える著作であり、この点については、江原氏による紹介からも明確である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一つのより重要な男性学の独自性は、男性のつらさを語るだけでなく、必ず何らかの点で、男性性や男性役割自体を、ジェンダー平等な方向に変革する視点が入っていることにある。2-3で述べたように、田中氏もその例に漏れない。たとえば田中氏は、男性の自殺率の高さについても、「弱音を吐けないことが原因の一つ」(p.76)と述べて、「男は強くなければならない」という男性アイデンティティの問題として捉えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対して、右派の主張は旧来の男性性の回復を主張するものである。江原氏が今回参照したホックシールドも、アメリカの右派の男性性に対する訴えについて、次のように描写している。「トランプは、男たちを『もう一度偉大にする』ことも明確に約束した。&amp;ldquo;男たち&amp;rdquo;とは、拳を撃ちつけ、銃を持ち歩くマッチョな男と、野心溢れる起業家の両方を指す」(ホックシールド前掲書p.325-326)。すなわち、旧来の男性性を喚起するものであり、男性学とは相容れないものだと言えよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-6-3　日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュに使われた例は見当たらない&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性学が右派とは方向性が逆である証拠に、日本のメンズリブがバックラッシュ的運動をした例がないのはもちろん、日本のメンズリブや男性学の言説が右派やバックラッシュ派に使われた事例も見当たらない&lt;a href=&quot;#721&quot;&gt;(注1)&lt;/a&gt;。アメリカの状況についてはよく知らないが、ホックシールドも、そのような事例は挙げていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし今後日本でそれがありうるとしたら、アメリカの「男性の権利派」のよう反フェミニスト的男性運動や保守的な立場の男性運動が盛んになって、それらと右派が結びつくようなケースではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;2-7　田中氏の主張は「男性たちにどこまで受け入れられるのか？」――私の場合&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点がどうであるかを実証するためには、何らかの調査が必要だろうが、とりあえず私自身の場合はどうだったか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、職業的研究者になりたかったのだが、結局なれなかった。そのことに少し寂しい気持ちを抱いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした中、田中氏の『〈40男〉はなぜ嫌われるか』を読んで、ドキッとした。そこには、「競争は終わった。もう逆転の可能性はない」(p.122)と書かれており、まさにそのとおりだったからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、田中氏は続けて、「ただ、ほとんど全ての40男の夢は実現しなかった」(p.120)と述べている。この田中氏の言葉によって、私は、こうした問題は私だけの話ではない、自らの男性としての意識のあり方を含めた構造的な問題であることを認識させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに田中氏は言う。「冷静になって振り返ってみれば、この40年の間に抱いてきた夢は、そもそもすべて他人事だったのではないか」「自分の頭で考え、試行錯誤し、生き方を見つけることができなければ、出世レースを続けていようが、『普通』の人生を歩もうが、『普通』から脱落しようが、全く同じである」「だからこそ、40男は夢を持つ必要がある。自分がどのような人間なのかを理解し、自分が何をしたいのかを考える」(p.131)と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上の個所を読んで、私には、まだ、男性性の現れとしての競争原理に支配された世俗的価値観に囚われているところがあるのではないか、と反省させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私はフェミズムにも少し関わっているが、その面でも、私は、ひょっとしたら惰性的に活動を続けているだけで、本当に自分の頭で考えて、自分が貢献できているかどうかや自分が何をしたいかを問いなおすことがおろそかになっているところがあるのではないか、と考えさせられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏は、管理職になった友人が、競争原理にもとづく「夢」を持つのではなく、「自分の部署では定時に帰れる体制を作りたい」と言っていることについて、「素晴らしい夢」だと言っているが(p.132)、そもそも労働問題やジェンダー問題は、そうした世俗的価値観には乗りにくい。もちろん、現実にはそれらの中でも世俗的価値観が影響力を持つことはあるが、そこから脱却しなければ運動は発展しないだろう。その意味でも、田中氏が説くような姿勢を持つことは、フェミニズムを含めた社会的活動にとってプラスになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の場合も、フェミニズムとの関わりを含めた、生き方をしっかりさせる上でプラスになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏が述べていることがまったく新しい考えだというわけではないだろう。たとえば、伊田広行氏が「主流秩序論」(伊田広行『閉塞社会の秘密―主流秩序の囚われ』アットワークス 2015など参照)として説いていることとも近いし、伊田氏の方がより議論が深まっている面もあろう。しかし、田中氏は田中氏なりの経験や研究から語っているからこそ、独自の説得力があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の場合、フェミニズムをそれなりに受け入れている点では、平均的な男性と同一ではない。しかし、上のような反省をすること自体は、田中氏の本の素直な読み方だと思うので、その意味では私個人の特殊な感想ではないように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、自分自身の問題として考えても、田中氏が語るような男性性と女性抑圧との関係については、もう少し議論を展開しないと見えてこない面があることはたしかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;3　田中氏の考察の到達点を踏まえたうえで課題の提起&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-1　課題は江原氏が言うより高い水準のもの――フェミニズムとのより明確な接続、フェミニズムとの連帯&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に触れたように、私も、田中氏の主張はジェンダー平等の観点から見ると課題を残しているという点では、江原氏と同感である。以下述べるように、江原氏の批判の中には、重要なポイントで当たっている点があると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、これまでの検討からわかるように、田中氏のようなフェミニズムに親和的な男性学の課題は、「無意識の特権意識を刺激することによって、フェミニズム叩きにならないようにする」といった低い水準のものではないだろう。より高い水準のもの、すなわち「フェミニズムにより明確に接続すること、フェミニズムと連帯すること」だと考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男性学にはこうした課題があることは、すでにメンズリブや女性学で指摘されてきたことである&lt;a href=&quot;#722&quot;&gt;(注2)&lt;/a&gt;。もし田中氏のような考察とフェミニズムとがより明確な接続をして、フェミニズムとの連帯がおこなわれれば、フェミニズムにとっても利益になるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん個別の研究者や著作がすべての課題を担えるわけではない。また、以下述べるようなことは、田中氏もわかっているけれども、本書では捨象しているにすぎない面もあろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、私は、田中氏の主張がフェミニズムと接続し、連帯する上では、どのような課題があるかは明確にしておく必要があると思う。それは、トータルな男性学やジェンダー論として必要なことだと思うからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、田中氏の主張には、以下のような課題があると考える。たとえば、私が授業で田中氏の本を取り上げるとしたら、以下のような点を補足するであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-2　男性が仕事で「競争」に勝つ志向と女性支配志向との関係についての認識&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-2-1　両者の関係を認識し、男女差別全体に視野を広げる必要性&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏が「男性が享受している特権」には注目していないことを批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先述のように田中氏の議論はフェミニズムと親和的ではあるが、たしかに女性との関係の変革自体については、第3章以外では、正面からは述べていない。また、田中氏は、女性が置かれた被差別的状況に対する男性の責任や男性の加害については、ほとんど語っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊藤公雄氏の言葉を使えば、男性の「優越志向・権力志向・所有志向」のうち、田中氏が論じているのは「優越志向」であり、他の2つの志向には目を向けていない。もちろん上の3つの志向は関連しているから、田中氏のように、男性の「『競争』して勝利する」志向を、「相手を言い負か」そうとすることや「女性に対して謝れない」ことと結びつけて述べることもできる。しかしながら、「優越志向」と「権力志向」と「所有志向」とは、ある程度意味が異なっている。たとえば、伊藤公雄氏は、「権力志向」を、「家庭」における権力として説明し、「所有志向」を、「女性」に対する所有として説明している（『〈男らしさ〉のゆくえ』p.112-114）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした「権力志向」や「所有志向」についても正面から見つめることは、田中氏が説いている男性性の変革にとっても必要ではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜなら、田中氏が指摘する、男性が仕事中心の生活をして「他人と『競争』して勝つ」志向は、女性に対する「所有」ないし「支配」志向とも関連しているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、男性が仕事において「競争」して勝とうとするのは、もちろん自分の収入や名誉のためであるが、それだけでなく、往々にして、それによって女性を「所有」したり、その女性を養うことによって「支配」したりする志向も含まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それゆえ、男性が仕事中心の生活をすることや「『競争』して勝つ」志向から完全に脱却するためには、女性に対する所有・支配志向からも脱却することが必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん社会における男女差別は、個人的な志向によってだけでなく、社会的な制度によって支えられているので、社会的な男女差別についても認識し、なくす努力が必要になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏がその後出版した『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(岩波書店 2019)では、「仕事」から排除された女性の状況の問題にも触れているが、それに加えて、「競争」に参加した女性が被るさまざまなハンディキャップの問題にも視野を広げて「競争」の問題を論じる必要も出てくるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-2-2　ジェンダー関係変革に対する男性の動機の強化&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏が、男性性の変革には「より強い動機付けが必要だ」と述べている点も、私は重要だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏が男性性を変えることを主張する主な理由として、「社会的公正や平等などの価値観」を挙げていないことを問題にしている。たしかに、そうした価値観は動機として重要だ。そのほか、男性が女性の立場に身を置いて考えること、すなわち「共感」という動機も有効だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダイアン・グッドマン(Diane Goodman)は、&lt;i&gt;Promoting Diversity and Social Justice: Educating People from Privileged Groups&lt;/i&gt;, Routledge, 2011（出口真紀子監訳、田辺希久子訳『真のダイバーシティをめざして : 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』上智大学出版 2017）で、マジョリティが社会的公正を支持する理由を、(1)被抑圧集団の人々への「共感」、(2)自分の信念などの「道徳的原則、宗教的価値」、(3)被抑圧集団に対する抑圧の解消が自分たちの利益にもなるという「自己利益」に分けている(p.121-156[日本語訳p.180-232])。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏が言う「社会的公正や平等などの価値観」は、グッドマンの分類では、(2)の「道徳的原則、宗教的価値」に当たる。それに対して、田中氏の主張は、主に(3)の「自己利益」からの主張だと言える&lt;a href=&quot;#723&quot;&gt;(注3)&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グッドマンは、(1)～(3)は、「それぞれが単独で社会的公正の支持を促す力を持っている。しかし多くの場合、それらは互いに関連性を持ち、複合的にはたらきかけることでより強く行動を促すことができる」(同上p.131[日本語訳p.195])と指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とすれば、(3)の田中氏の観点に、(1)や(2)の観点をもっと加味することが重要だと言える。すなわち、自分自身のためだけでなく、女性のため、社会的公正のためでもあることを認識することは、男性性の変革にとってより強い動機を持つことにつながるのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-3　労働における具体的課題におけるフェミニズムとの連帯&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-3-1　労働問題におけるフェミニズム視点明確化の必要性&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
具体的な課題のレベルで言えば、長時間労働の解消や「生活態度としての能力」評価の是正などは、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等にとってプラスではあるが、十分条件ではない。この点は、やはりフェミニズムの視点を入れることによって、男性の家事・育児責任遂行や雇用における男女平等を実現する必要がある&lt;a href=&quot;#724&quot;&gt;(注4)&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏が論じているような男性性の問題点は、男性が「妻子を養う」(p.66)役割と不可分である。とすれば、そうした男性性の問題点を完全に消滅させるためにも、家庭での性別分業や職場の性差別を完全に消滅させて、男女が共に自立し連帯した社会を実現する必要がある。その意味で、フェミニズムの視点を明確化することは男性解放にとっても必要だと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-3-2　フェミニズムとの連帯によって、男性解放の展望の現実性を高める&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江原氏は、田中氏の主張を批判して、男性からすれば、「男性性を変える」ことよりも「男性の雇用をもと通りにする」ことの方が、「ずっとわかりやすい」と述べていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先述のように、「男性の雇用をもと通り」にしても、田中氏が主張していることは、ほとんど実現できない。また、現実的に見ても、かつての年功賃金のようなものを復活させる展望はないだろう。ホックシールドが描写しているアメリカの右派も、日本の右派も、実際には労働者の生活や権利を守るために貢献しておらず、公務員やマイノリティを攻撃しているだけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、「わかりやすさ」という点は重要だろう。なぜなら、男性の生き方を変えられる社会的展望をわかりやすく示すことができるか否かは、男性が変革への志向が持てるか否かに関わってくるからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日、それを示すことは容易でないが、フェミニズム運動との連帯は、展望を切り開く上でプラスになるだろう。その意味でも、フェミニズムへの偏見（江原氏の言う「特権意識」を含めて）を克服することが重要だと思う。以下、この点を、正規雇用と非正規雇用に分けて、田中氏の主張に即してまとめてみる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-3-2-1　正規雇用に関して&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2-2の男性の働き方の問題に関して言えば、田中氏が批判している長時間労働や「生活態度としての能力」評価は、職場での女性に対する排除・差別をも生み出しているからこそ、女性運動もそれらに対して批判してきたことを認識することが重要ではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば、女性労働運動は、男女雇用機会均等法の制定や改正の際に、「男女共通の労働時間規制」を求めて闘った。また、賃金の女性差別をなくす運動は、競争をあおるような能力主義や恣意的な人事考課ではなく、「同一価値労働同一賃金原則」を主張して闘ってきた。そうした女性解放運動を支援したり、共闘したりしていくことが重要なのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;3-3-2-2　非正規雇用に関して&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『男がつらいよ』は、非正規雇用の男性に関しては、2ページしか費やしておらず、「イメージと現実のギャップに苦しむ男性たちを減らすためには、現代の経済状況に適応した新しい男性の生き方を創造するのが近道なのです」(p.103)としか言っていない。「イメージ」という漠然とした語を、田中氏が「はじめに」以外で使っているのはこの個所だけであり、この個所に関しては、江原氏の指摘が当たっているように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中氏が具体的なことを語れない理由は、田中氏が本書について、「社会のあり方や他人の考えを変えるのは難しいですが、自分の価値観や行動は自らの意志で修正できるはずです。やれることからやっていこうというのが、この本の考え方になります」(p.16)と述べていることと関係しているように思う。正規雇用の場合は、若干ながらも個人で働き方を選べる面があるのに対して、非正規雇用の場合は、低賃金などが問題だが、この点は労働者個人には決定権がまるでないからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本書についての田中氏の上の考え方は理解できるが、本書の中でなくとも、どこかで社会運動的な観点にもつなげていく必要があるのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、田中氏は、本書の最後で、「競争の結果として生まれる格差が、誰もが納得できる範囲に収まっているかどうかについて考えてみてほしいと思います」(p.216)と述べており、この点は、均等待遇や同一価値労働同一賃金原則の話につなげていくことができるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非正規労働に関しては、丸子警報器事件以来、女性運動が前進を勝ち取ってきた面が大きいので、そうした面から、フェミニズムと結びつくことが必要になってくると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;font-size: large;&quot;&gt;&lt;strong&gt;おわりに――女性抑圧や男性性の否定的側面と社会全体の抑圧との関連に注目する観点も必要&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の3で述べたことは、べつに目新しい話ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、以上のように田中氏の考察の到達点をきちんと踏まえて議論をすすめたことによって、江原氏の批判と田中氏の主張がよりかみ合ったものになり、議論がより具体的なものになり、展望がより明確になったとは言えるのではないだろうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私自身、今回の文章をまとめてみて、自分なりに田中氏の考察をフェミニズムに結びつけて理解することもできたし、逆にフェミニズムの立場から田中氏の考察を受け止めることもできたようにも思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、フェミニズムと接続することは、そのぶん自分の思想や行動を問い直すしんどさを多く抱え込むということでもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを乗り越えるためには、私は、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」という大きな視点を持つことが一助になるのではないかと思っている。男性性という点から言えば、男性学では「男らしさ」の類が男性にも抑圧になっていることが論じられるが、私は、「男らしさ」が、より広く、よりさまざまな社会全体の抑圧と関係している面を見ることが重要だと思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、男性の女性支配が、男性にも「コスト」を課しているというだけでなく、男性にも女性にも「社会全体の抑圧」という巨大な「コスト」を課していることを認識することで、男性が被る「コスト」もより大きなものとして捉えることができるのではないか。そのことは、男性が自らの「特権」を見直したり、女性差別に反対したりする動機をより強いものにすることなると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、「ある社会における女性解放の程度は、その社会の一般的解放の自然的尺度である」と言うだけでは抽象的である。それをより具体化するための一つの方法として、男性学や男性性研究で論じられてきた問題を学び、深めることは重要だと思う。そのこともあって、今回の文章を書かせていただいた次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;［2019年10月7日追記］文章全体の趣旨を変えない範囲で、少し文を修正させていただきました。&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;721&quot;&gt;&lt;/a&gt;(注1)(この点については、twitterで「家来」さんも「フェミニスト叩きをする論者が、実際に田中俊之の論を誤読あるいは悪用したケースはあるのだろうか？」と疑問を呈している(2019年8月25日23:25)(&lt;a href=&quot; https://twitter.com/kerai14/status/1165872850328141824&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://twitter.com/kerai14/status/1165872850328141824&lt;/a&gt;)。「家来」さんは、その後さらに「自分は&amp;ldquo;懸念&amp;rdquo;のレベルであったとしても、あまり江原さんの論に説得力を感じないのですが(&amp;hellip;&amp;hellip;)そういう&amp;ldquo;悪用&amp;rdquo;をもしも見かけたら、それはきちんと批判したいですね。」と述べている(2019年8月26日午後4:47)(&lt;a href=&quot;https://twitter.com/kerai14/status/1165893491563491328 &quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://twitter.com/kerai14/status/1165893491563491328&lt;/a&gt;)。この点もおっしゃるとおりである。たしかに誤用の可能性はあるとしても、重要なのは、田中氏の論は、そうした誤用が誤用であることを指摘できるような論理なっているだということだと私は思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;722&quot;&gt;&lt;/a&gt;(注2)2006年に、メンズセンターのニューズレター『メンズネットワーク』79号で、大山治彦氏が以下のように述べている。&lt;blockquote&gt;元々このメンズリブになる時っていうのは(&amp;hellip;&amp;hellip;)ある程度フェミニズムや女性学を勉強していた人達、あるいは女性グループでそういったジェンダーの訓練を受けた男達が中心でした。だからそこのところが非常に前提としてあったのですよね。その加害者性であるとか社会と構造を関わらせてみるっていうのは、ある種当然と言うか(&amp;hellip;&amp;hellip;)これが裾野が広がる中で、そういったフェミニズムとかジェンダーの勉強をしないまんまというか、出会えないまま男性のグループに直に来る人が増えてきたっていうところに、少し問題という部分もあるのかなというふうに思います。しかし私は実を言うと、ちょっと極端なものの言い方になりますが、全員が全員わからなくても、わからなくてもいいってわけじゃないんですが、それだけの興味を持つことは難しいだろうと、残念ながら思っています。だけどせめてグループの中核になっている人とか、自分の問題としてこのメンズリブを考えたいと思っている人には、それが届いたらいいなというふうに思うんですね。(p.28)&lt;/blockquote&gt;また、今年の日本女性学会の『学会ニュース』第146号(2019年５月)には、以下のようにある。&lt;blockquote&gt;ジェンダー差別の問題には反応が悪い学生たちが、「男も苦しいんだ」というタイプの男性学の議論だけをつまみ食いしてくる。&lt;/blockquote&gt;&lt;a name=&quot;723&quot;&gt;&lt;/a&gt;上の2つの文は、いずれも、男性学やメンズリブを学ぶことが、自動的にはフェミニズムへの理解に結びつかないことを問題にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;723&quot;&gt;&lt;/a&gt;(注3)田中氏は、第3章では、(1)(2)の観点にも言及しているが（たとえば、「女性の立場から考える」[p.133]、「性の二重基準」は「女性差別」[p.131]など）、第3章も、全体としては、たとえば「女性を性的な魅力」だけで評価しないことは「自分がいい相手に巡り合うためにも」必要だ(p.127)というふうに、男性自身のために書かれている（そのこと自体は重要だが）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;a name=&quot;724&quot;&gt;&lt;/a&gt;(注4)田中氏も「男性が家事・育児に責任を持たなければなりません」(p.209)と述べているが、その理由は「フルタイムで働く女性の増加に対応するために」という位置づけにとどまっている。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-7/2.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>日本女性学会大会シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想</title>
      <description>日本女性学会『学会ニュース』第147号(2019年9月)（&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://joseigakkai-jp.org/wp/wp-content/uploads/2019/09/news147web.pdf&quot;&gt;PDF&lt;/a&gt;）に、2019年度日本女性学会大会のシンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」についての私の感想が掲載されましたので、このブログにも掲載させていただきます。上のPDFには、他の方の感想やパネル報告・ワークショップ報告も掲載されています。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;シンポジウムについての男性としての私の感想&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;遠山日出也&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シンポジウム「男性性研究で何がみえてくるか」で、江原由美子さんは、近年の男性学について、ポジショナリティ論の見地から批判する一方（私は、この批判は、田中俊之さんらの主張を正確に理解した上での批判なのか疑問に感じた面があるが[＊]）、グローバル化の下での男性労働者の困難を反映している面もあるとし、男性性と現在の右傾化や排外主義との関わりを解明することに今後の男性学の可能性があるとされた。すぎむらなおみさんは、学校の管理教育と男性性との結びつきを指摘し、男性教員でも女性を見下さずに「（「男は」でなく）男もつらいよ」と嘆く人たちとの連帯を展望なさった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近年の男性学に関する論争では、男性の「特権」とその「コスト」の関係が論じられたが、上の２報告は、男性性が右傾化、排外主義、管理教育などと結びついて、男にも女にも巨大な「コスト」を課していることを示唆している。私の場合、「ある社会における女性解放の程度はその社会の一般的解放の自然的尺度である」という認識がフェミニズムに関わる力になってきたので、２報告が挙げたような具体的問題に即して、男性性の克服と社会の全般的解放との関係についても解明していきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田房永子さんは、エロ本や週刊誌の世界では、女性の人間としての行動を「エロ」に還元する記事が生産されていることを語られた。そうした記事は女性に実害をもたらすだけに、どうしたら変えられるのかを考えさせられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平山亮さんは、「覇権的男性性」概念とは、「男とはこういうものだ」という認識が性差別を正当化するのを批判するための概念であると指摘された。私も、男性には、外的要因ばかりに注目して個人でできることを怠る傾向はあると思うので、この指摘は重要だと感じた。平山さんはまた、男性学が、白人性研究などのマジョリティ研究を参照することを提唱された。伊藤公雄さんも同様の提唱をしており、私も同感だが、私はその際にも、女性学から学んだ「自らの解放のため」という視点は、自分を含めた社会を変革する力になると考える。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;[＊]この点に関しては、その後、江原由美子さんが「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66706&quot;&gt;フェミニストの私は『男の生きづらさ』問題をどう考えるか&lt;/a&gt;」という一文を発表されたので、私は、「&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://genchi.syoyu.net/category-7/2.html&quot;&gt;江原由美子氏の田中俊之氏に対する批判について――田中氏の考察の到達点を踏まえた課題の提起を&lt;/a&gt;」という文章を書かせていただいた。(2019年10月2日追記)</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-7/1.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>『週刊文春』の小保方さんの記事についての抗議ハガキ</title>
      <description>『週刊文春』2014年3月27日号の記事「『STAP論文』事件のウラに不適切な〝情実人事〟　小保方晴子さん　乱倫な研究室」について、以下の抗議ハガキを、同誌編集部宛てにお送りしました(3月20日。もちろんハガキの表には、私の住所・氏名を記載しています)。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;br /&gt;
今週号の貴誌の小保方さんについての記事ですが、貴誌の独自のネタは、仮にすべて事実だとしても、しょせんは研究室内部の人間関係や私生活についての話にすぎず、不正人事の証拠はおろか、不倫の話さえ出てこず、彼女の生活の資金源に不正があるとも書かれていません。にもかかわらず、貴誌は「小保方晴子　乱倫な研究室」「『STAP論文』事件のウラに不適切な〝情実人事〟」「共同研究者の家庭にヒビ」「セレブ生活の資金源」などの大きな見出しを付けることによって、なにか彼女が不倫による不正人事でのし上がったり、表に出せない資金源を持っているかような印象を大々的に振りまいています。私も、不正な研究・人事、その組織的背景、社会的発言などについて、きちんと根拠を示して批判する記事でしたら歓迎いたしますが、そもそもプライベートなこと(男女関係や生活費の出所を含む)を書きたてるのがおかしいと思います。今後恐らく研究者としては厳重な処分を受け、重荷を負って再出発するであろう人に対して、それ以上の不当な傷を与えるような記事は止めてください。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;br /&gt;
「乱倫」という言葉は、『広辞苑』によると、「人倫を乱すこと。人倫の道にそむくこと。特に、男女の間についていう」という意味で、やや漠然としています。しかし、こうした「男女の間について人倫の道にそむくこと」という意味から考えても、また、聞きなれない言葉である以上、多くの人は言葉として類似している「不倫」に類する意味に解釈するであろうことから考えても、「不倫」≒「乱倫」と上記のハガキの中では捉えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、週刊誌の記事の場合、その内容もさることながら、記事の見出しが全国紙や電車の中吊り広告に掲載されるので、大きな影響があると考え、見出しの問題も重視しています。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-6/1.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>フェミニズムに反する上野千鶴子さんの「脱原発」シングルイシュー選挙肯定</title>
      <description>上野千鶴子さんが、WANサイトの「ちづこのブログ」(No.59)に「&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/ueno/?p=3729&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;都知事選は脱原発都民投票だ&lt;/a&gt;」(2014年1月23日)という一文をお書きになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上の一文で、上野さんは以下の2点を論じ、それぞれ次のように答えていると言えるだろう。&lt;br /&gt;
(1)「脱原発」という「国政マター」を都知事選の重要な争点にすることの是非&amp;rarr;(上野氏の答え)是&lt;br /&gt;
(2)「脱原発」という「シングルイシュー」で都知事選をすることの是非&amp;rarr;(上野氏の答え)是&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も(1)については、その通りだと思う。しかし、(2)については疑問を感じ、すぐに以下の意見をWANサイトのコメント欄に記した。&lt;blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;上野さんの今回の文章については、今回の都知事選では｢脱原発」という争点が重要だという点については、その通りだと思います。けれども、上野さんが｢シングルイシュー」を強調しておられる点については、疑問に思います(自民党に対する反論としては、一定の意味はあるにしても)。選挙は各個人のそれぞれの生活や要求をもとにして闘うべきもので、貧困や福祉の問題はもちろんですし、なかなか選挙の争点にはなりにくいジェンダーやフェミニズムの問題はどの選挙でも積極的に争点として押し出していく必要があると思うのです。たとえば、「女性と人権全国ネットワーク」では、各候補に公開質問状を出しておられますね。&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://www.projectjapanwomen.net/#!tochijisen/c226c&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt; http://www.projectjapanwomen.net/#!tochijisen/c226c&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;実際、(1)の点に関する上野さんの主張は説得力があるが、(2)の点に関する上野さんの主張は説得力に乏しい。たとえば、上野さんは都市博中止という「シングルイシュー」を公約に掲げた青島都政の下でも都政は機能したと述べ、都の福祉行政の担当者のレベルは高いので知事には「へたに手をつけてもらわないほうがよいくらいだ」とおっしゃっている。しかし、かりに上野さんの青島都政認識が正しいとしても、今後、「シングルイシュー」で当選した知事がそれ以外の分野に「へたに手をつけ」ない保証はないし、いくら担当者のレベルが高くても予算がなければどうしようもないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がショックだったのは、一貫してフェミニズムの立場に立ってこられた上野さんが「シングルイシュー」論を唱えたことだ。私は、どこかの男性知識人が原発への強い危機感から「シングルイシュー」論を展開するのに対して、「女の問題を後回しにするな」、「女の問題は些末な問題ではない」と発言なさることが、むしろ上野さんにふさわしいと思うのだが&amp;hellip;&amp;hellip;。脱原発政策を大いに主張しつつも、そのためにも都政において性差別解消に取り組む意義も説くこともできる(たとえば原発が差別や家父長制に支えられていることを指摘して)と思うが、それもなさっていない。これではフェミニズムの視点を放棄なさっていると言わざるをえない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、上野さんが説かれてきた女性運動の戦争協力への反省などから考えても、朝鮮学校への補助金支給停止やヘイトスピーチ問題(上野さんの名誉のために言えば、これらの点については、上野さんもきちんと意見を表明してこられた)を争点として無視していいとも思えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上野さんの一文は、特定の候補者には触れていないが、今回の都知事選の情況から見ると、ひょっとしたら細川候補を推すつもりで書かれたのかもしれない。というのは、今回の選挙では、細川陣営が「脱原発」という「シングルイシュー」を強調してきたからである。しかし、かりに細川候補を推すことが正しいとしても(私が都民だったら彼には投票しないけれど)、「シングルイシュー」論が正しいということにはならない。なぜなら、第一に、誰に投票するにせよ、投票の際には、「シングルイシュー」でなく、女性/ジェンダー政策などについても検討するべきだからだ。もちろん、たとえある候補者の女性/ジェンダー政策が劣っていたとしても、他のさまざまな要素を勘案して、その候補者に一票を投じることはありうるが、そのことと「シングルイシュー」でよしとすることとは異なる。第二に、ジェンダーやフェミニズムを争点として押し出すことによって、各候補者に、その点に関してより良い公約をさせることができる場合があるからである。候補者への働きかけや公開質問状の送付・督促、候補者相互の論戦の過程などで、候補者が当初よりもきちんとした政策を出さざるを得なくなるケースはしばしばある。実際、宇都宮候補も、前回選挙に出馬を表明した当初の政策はジェンダー視点が乏しかったが、女性の方々の働きかけで改善されたりしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私には、上野さんが今回、「脱原発」シングルイシューを唱えておられる理由がわからない。ひょっとしたら、最近「シングルイシュー」が流行していることと関係があるのかもしれない。たしかに脱原発運動ならば、「脱原発」という一致点ですすめるべきだろう(ただし、より有効な運動にするためには、各自の独自の観点や相互の対立点についてもきちんと議論して運動を発展させることも必要だという点も見落としてはならないと思うが)。しかし、知事の権限はきわめて幅が広い以上、原理的に「シングルイシュー」とはなじまないと思う。また、今回の上野さんの「脱原発」の中にフェミニズム視点が入っていないのは、そもそも今の日本では、エコロジーの中にフェミニズムの視点を入れる必要性を説くような「エコロジカル・フェミニズム」(たとえば、私はメアリ・メラー『境界線を破る！』に感銘を受けた)があまり発展していないこととも関係があるのかもしれない。しかし、いずれにせよ、はっきりしたことはわからないが&amp;hellip;&amp;hellip;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上野さんは、私などとは比較にならないくらい優れたフェミニストであることは間違いない。しかし、今回の一文に関するかぎり、何度読んでも、フェミニズムを放棄しているように思えてならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(※)なお、上野さんは、文中で、「それに有権者はシングルイシューだけを選んでいるわけではない。身の回りを直撃するできごとから国政マターまで連続性を持った政策の組み合わせを選んでいる」ともおっしゃっているが、それなら「連続性を持った政策」のパッケージを提示するという話であり、シングルイシュー肯定とは矛盾している。また、ある問題(たとえば原発問題)に関する理解の深さが自動的に他の問題(たとえば女性問題)への理解を保障するものではない以上、ある程度、それぞれの争点に独自性があることも無視してはならないだろう。</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-3/2.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>立命館大学の講師に対する誹謗中傷に関する同大学の声明についての同大学への手紙</title>
      <description>立命館大学の講師に対するネット上での誹謗中傷・民族差別の件(NAVERまとめ「&lt;a href=&quot;http://matome.naver.jp/odai/2138963636728694001&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;【デマ】立命館大学が朝鮮学校無償化の嘆願書を学生に書かせた？&lt;/a&gt;」など参照)について、同大学が1月15日に出した声明は本末転倒だという感じがしてならないので、昨日、立命館大学に以下の手紙を送りました(以下では、読みやすいように、実際の手紙とは異なり、段落と段落の間を1行空けてあります)。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;br /&gt;
立命館大学御中&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　私は、貴大学の大学院の卒業生の遠山日出也と申します。以前、貴大学で、短い期間ですが非常勤講師をさせていただいたこともあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、先日来ネット上で話題になっている「立命館大学の講師が出席カードとともに朝鮮学校の無償化を求める嘆願書を学生に書かせている」というデマの件についてですが、貴大学は、昨日、「&lt;a href=&quot;http://www.ritsumei.jp/news/detail_j/topics/12524/year/2014/publish/1&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;授業内における学生団体の要請活動への本学嘱託講師の対応について&lt;/a&gt;」という文章をウェブサイトに掲載なさいました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は、この文章が最初に事実関係を説明しておられる点については、あらぬ疑いを解いたという意味があると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、それらの事実関係からは、その次に述べておられる「結果として受講生に同講師が嘆願書への署名を求めたかのような誤解を与えてしまいました」という結論は出てきません。ですから、「大学として不適切だと考え、講師に対し、指導を行いました」というのは筋が通らない話だと思います。もちろん、こうした政治的問題を扱うには力量や経験、工夫が必要でしょうから、その講師の方の今回のやり方には改善の余地もあったのかもしれませんが、それはあくまで教育実践における研鑽とか助言とかいう次元の問題であり、大学がウェブサイトで「心からお詫び申し上げます」とか、「今後、このようなことが再発しないように徹底してまいります」とかいったような、何かセクハラのような不祥事でも起こしたかのような表現をするのは不適切だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　より大きな問題は、今回の貴大学の文章には、講師に対するデマや誹謗中傷に対して抗議する内容がまったく含まれていないことです。現在、その講師の方のお名前をインターネットで検索してみると、数ページにわたって、事実を歪曲した無責任な誹謗中傷――嘆願書を「書かせた｣とか「単位と引き換え」とか――だらけのサイトが出てきます。私はインターネットで同種の被害に遭われた方を何人か存じ上げておりますが、そうした方々は、みなさん非常な苦痛を強いられていました。もしあなたやあなたの娘さんがこうした誹謗中傷の被害に遭われても、平気でいらっしゃれるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかも、その講師の方に対するデマや誹謗中傷の中は、明らかな民族差別的言辞(「韓国に強制送還しろ」とか「北朝鮮の工作員」とか「チョン」とか)も含まれています。また、そもそも今回ネット上で騒ぎ立てられ、貴大学が声明を出すにまで至ったのは、「朝鮮学校無償化」問題だったからだという面が否定できません。他の政治問題だったら、けっしてこれほどは騒ぎ立てられなかったでしょう。すなわち、今回の問題に関しては、民族差別という要素が含まれていることも見逃してはならいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　立命館大学の教職員が、デマや誹謗中傷、民族差別の被害に遭われた。それは、けっして私生活上での話ではなく、職場での職務遂行上の行為であった。それなのに、職場である立命館大学は、抗議を全然せずに、むしろその方の落ち度(がかりにあったとして、それ)だけを大げさに謝罪するというのですから、立命館大学は、働いておられる教職員の方々にずいぶん冷たい、と感じざるをえません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ですから、私は、貴大学には、講師の方に今回の件をお詫びするとともに、講師の方に対するデマ、誹謗中傷、民族差別に抗議する声明を出していただくようにお願いいたしたく思います。&lt;div style=&quot;text-align: right;&quot;&gt;2014年1月16日&lt;/div&gt;遠山日出也&lt;br /&gt;
(住所、電話番号、メールアドレスも記載したが、ここでは略す)</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-5/1.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>さるくびとシネマ１月上映会</title>
      <description>以下のような上映会がおこなわれますので、ご関心のある方はぜひおいで下さい。私も両日とも参加させていただきます。&lt;br /&gt;
&lt;hr /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;[1日目(2014年1月25日)]&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;「最後の吉原芸者四代目みな子姐さん―吉原最後の証言記録―上映会」&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さるくびとシネマ第１５回特別企画です。ドキュメンタリー「最後の吉原芸者四代目みな子姐さん」の上映だけでなく、京都・島原遊廓の司太夫さんをお招きしての舞いの披露、安原真琴監督によるインタビューなど盛りだくさんの内容になっています！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（安原監督より）&lt;br /&gt;
新年は賑やかに幕を開けます！京都での上映は初めてです！&lt;br /&gt;
さるくびとシネマ第15回上映記念として、25日をみな子姐さんデーにいたしました。全3回上映します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そしてなんと初回はゲストに、京都・島原遊廓の司太夫さんをお迎えします！&lt;br /&gt;
ワークショップとして島原遊廓のお座敷で披露されている舞を舞ってくださいます。&lt;br /&gt;
また司太夫と監督のトークも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
☆これは、夢の東西廓芸者対談です！（監督が吉原芸者みな子姐さんの口寄せ巫女的な役割！？）。&lt;br /&gt;
第2回と第3回の上映は安原監督に、制作秘話やみな子姐さんのエピソードについて話していただきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、破格の料金もポイントです！&lt;br /&gt;
初回2000円、それ以外は1000円です！第15回記念ならではの料金です。どうぞお気軽にお出かけください！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
場所： 京都市東山いきいき市民活動センター　和室および二階集会室&lt;br /&gt;
時間： 初回（和室） 13:00ー15:30　12:30開場　ゲスト司太夫さん&lt;br /&gt;
ーー： 第2回（和室）16:00ー17:30　15:45開場　トーク安原眞琴さん&lt;br /&gt;
ーー： 第3回（二階）19:00ー20:30　18:30開場　トーク安原眞琴さん&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参加費 参加料金： 初回 2000円　/　第2回・第3回 1000円&lt;br /&gt;
講師 司太夫さん、安原真琴さん&lt;br /&gt;
定員 和室30人、集会室80人&lt;br /&gt;
日時 2014年1月25日&lt;br /&gt;
場所 京都市東山いきいき市民活動センター（一階・二階）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■最寄駅・バス停（各駅、停留所より徒歩５分）■&lt;br /&gt;
【市営地下鉄東西線】三条京阪・東山　各駅&lt;br /&gt;
【京阪本線】三条駅&lt;br /&gt;
&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000099/99788/higasiyama-map.GIF&quot;&gt;地図&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
申込方法 いずれも先着50人様になります。メールでお申込みください。amenic1102pyahoo.co.jp&lt;br /&gt;
さるくびとシネマ&lt;br /&gt;
事務局　amenic1102@yahoo.co.jp　&lt;br /&gt;
主催 グローバリゼーションとひとの移動映画祭&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考までに、安原さんのHPも掲載させていただきます。&lt;br /&gt;
&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.makotooffice.net/&quot;&gt;日本文化研究所～江戸のサブカルチャーを未来に～&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;[2日目(2014年1月26日)]&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;『&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://aoshi-shigure.com/about/about.html&quot;&gt;青し時雨（あおししぐれ）&lt;/a&gt;』&lt;/strong&gt;（飯塚花笑監督）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作品は前作『僕らの未来』で、性同一性障害の高校生の学校や家族との葛藤を描いた自伝的作品で共感を得た飯塚花笑監督の新作。考えてみれば、愛、性志向、進路、家族&amp;hellip;人生の20歳前後は何かと悩ましい。若者たちがおとなになっていく季節、あるいはおとなになれない季節、その葛藤は、ずっとこころのなかに、静かにときには激しく雨が降り続いているようなものかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯塚監督の前作をもう一歩進めたかたちで若者たちの世界はひろがっているが、それは葛藤を過ぎて自分で決めていくプロセスなのだろうか。&amp;hellip;郊外にある古い民家を利用したシェアハウス「赤い子馬荘」に吸い寄せられるように集まった面々。自分が自分であることと、家族の期待や無理解とのギャップ&amp;hellip;そして、変わっていく町。若者たちの震える心の繊細さを黙って抱きしめていたくなる作品。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
料金は監督トークこみ1000円。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回上映　11：00－13：00&lt;br /&gt;
監督トーク　13：15－14：15&lt;br /&gt;
第二回上映　14：30－16：30&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
場所 京都市東山いきいき市民活動センター（二階）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
■最寄駅・バス停（各駅、停留所より徒歩５分）■&lt;br /&gt;
【市営地下鉄東西線】三条京阪・東山　各駅&lt;br /&gt;
【京阪本線】三条駅&lt;br /&gt;
&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000099/99788/higasiyama-map.GIF&quot;&gt;地図&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◎さるくびとシネマのブログもご覧ください。&lt;br /&gt;
&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;http://amenic2011.cocolog-nifty.com/&quot;&gt;さるくびとシネマ&lt;/a&gt;</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-4/1.html</link> 
    </item>
    <item>
      <title>第4回WAN総会とシンポジウムに参加して</title>
      <description>&lt;p&gt;さる5月26日、名古屋市男女共同参画推進センター「つながれっとNAGOYA」で、&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN) &lt;/a&gt;の第4回通常総会とシンポジウムが開催された。私がとくに関心を持った点を中心に、感想を述べてみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;一　第4回WAN総会&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
総会には51人の方が出席され、委任状を提出された方と合わせて定足数を満たしたので、総会は成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;１．2012年度事業報告をめぐって&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初に「2012年度事業報告」があり、WANが認定NPO法人になったことが報告された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2012年度末(2013年3月)で、WANの会員は460名近くになり、2013年4月のサイトへのアクセスは、ページビューで約10万2000になったとのことだった。この数値を2年前の第2回総会時の発表と比べてみると、会員数は、2年前は約300名(2010年度末)だったので、1.5倍以上に伸びている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、アクセス数は、すでに2年前の総会で「10万直前」だと報告されており、同年中に「10万を超えた」という報告もあったので、その頃からほとんど伸びていないと言える&lt;a href=&quot;#51&quot;&gt;(1)&lt;/a&gt;。アクセス数が伸びていないのは、毎日更新される記事の数や内容があまり変わっていない(と思う)ことと関係があろう。アクセス数の増加を至上目的にする必要はないが、アクセス数を伸ばすには、もっと記事の数を増やしたり、読まれる記事を増やしたりすることが必要だ。私見では、エッセイや報告などだけでなく、自分の主張をもっと強く訴えるような記事を増やす必要があるのではないかと思う(この点は私も努力したい)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、携帯からのアクセスが1/3だったとのこと。こうした状況の変化にも対応が求められているのだろう(このことは、WANだけの問題ではなく、私自身のブログなどについてもだが)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、一部の記事にコメント欄が開設されたことが報告された。「一部の記事」といっても、投稿者が望みさえすればコメント欄は開設されるということであり、コメント欄の開設に制限を加えるという話ではないので、これで十分であろう。今回のコメント欄の開設は、WANサイトの双方向性の拡大にとって、大きな前進だと思う。今のところ、とくに「荒らし」もなく、平穏な意見交換が進められていると思うので、多くの方はコメント欄を開設して良かったと思っておられるのではないだろうか？　ただ、もう少し、異なった立場からの真摯な議論のぶつかり合い――できれば建設的なもの――があるといいと思う。もっとも、そうしたことは、それほど簡単なではないのだろう。今後、実現できるように私も努力したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前、拙ブログの「&lt;a href=&quot;http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-377.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;WAN争議が提起した課題と現在のWANの問題点&lt;/a&gt;」というエントリで述べたことのうち、昨年は「総会の時間が短すぎる」という点を改善していただき、今年は「サイトの双方向性の乏しさ」という点を改善していただいたわけである。また、上の私のエントリの中では、「上野千鶴子web研究室」というコンテンツがグローバルメニューに掲載されていることは、WANが上野さんを特別扱いしている感じを与えると述べたが、昨年度から、グローバルメニューは「女性学研究室」になり、「上野千鶴子web研究室」はそのサブメニューになった(この点は、べつに私の意見とは関係ないと思うが)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙ブログの上のエントリでは、2010年のWAN争議における理事会の謝罪事項(「組合及び組合員と事前に相談・協議がなかったこと」など)をWAN-NEWSでも公表して、今後そうしたことを起こさない決意や再発防止のための保障を示すことなども求めているが、そうしたことを含めて、他の点もとくに非現実的なことを述べたつもりもないので(やり方には工夫が必要な事項もあろうが)、今後何らかの形で実現できるように努力したいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事業報告では、他にもさまざまな企画をおこなったことが報告されたが、それらの大半はWANサイトを見ればわかることでもあり、ここでは省略させていただく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、ボランティア登録者は110人であり、今年はボランティア保険に入ったとのことも報告された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質疑応答では、私は、総会の1週間ほど前に提出した、「&lt;a href=&quot;http://genchi.syoyu.net/category-2/1.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;WAN『コメント投稿規程』に関する意見&lt;/a&gt;」について述べた。それに対しては、牟田和恵副理事長から、「その件は、すでに文書で提出していただいているので、私たちは目を通している。コメント欄については、いま試行錯誤の最中なので、いろいろ意見を聞いて、今後見直す」とのご答弁があった。この件に関しては、総会後の6月1日、一部、私の意見に沿った見直しをしていただくとともに、他の点については今後の様子を見て、必要に応じて検討するという回答をいただいた(「&lt;a href=&quot;http://genchi.syoyu.net/category-2/2.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;『コメント投稿規程』に関する私の意見に対するWANの回答&lt;/a&gt;」参照)。私も、現在の状況では、それで十分だと思う。早急に改善していただいてよかったと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;２．&lt;/span&gt;2012年度会計報告など&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
WANは年間約500万の予算を使っているとのことだ(多いのは、サイト運営費132万、事務所費72万など)。当日は会計報告や予算案についてはじっくり考えられなかったが、これだけの予算を使っているのだから、来年からは、できれば会計報告や予算案についても質問してみようと思った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;３．&lt;/span&gt;定款の一部改定&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細かな字句上の変更のほか、理事の人数が「7～15人」から「7～20人」に変更された(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/about/?page_id=13&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;定款&lt;/a&gt;[ただし、8月5日現在掲載されているのは、改定前のもの])。理事を増員するのならば、若い世代の方々の関心や利害を反映させるために、若い世代をもっと思い切って登用する、または若い世代の方々に立候補していただきたいと思う(本当は増員しなくても、そうしたほうがいいと思う)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;４．2013年度事業計画をめぐって&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「2013年度事業計画(案)」では、「質量ともに限界にきたサイトのリニューアル」、「他団体との連携の形成」、「組織の遠心力と求心力をどう保つかや、会員とボランティアへ何をフィードバックしていくかも課題であること」などが示された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質疑応答では、私は、昨年に引き続き、「WANサイトに、組織の運営システムを示してほしい」という要望を出した。理事会や総会については定款に書かれているのだが、それ以外の点については、ふだんどういう組織運営をしているかがよくわからないからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、「どのような組織のシステムになっているかを示すということは、組織の透明性を確保したり、責任の所在を明らかにするうえで必要だと思う」「昨年の総会では、私とは別の方が、『WANはピラミッド型組織ではなく、新しい組織を目指してほしい』という意見を出されたし、上野理事長もつとに『フェミニズム的組織論』を打ち出しておられるが、それが具体的にどういう組織になっているかがわからないといけないと思う」といったことを述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上野千鶴子理事長は、「それが課題であることは十分に承知している」と述べられた。上野理事長は、「いま、組織の急成長にそうした課題が追いついていない状況で、試行錯誤をしているが、組織体制を示すことは、たしかに組織の透明性を確保したり、責任の所在を明らかにするうえで必要だから、来年度にかけて整備したい」(正確な引用ではなく、だいたいの内容です)といった答弁をされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、私は、以前から訴えている「&lt;a href=&quot;http://wansogi.omiki.com/toukoukitei.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;投稿規程に関する要望&lt;/a&gt;」を簡単におこなった(昨年も訴えた点については、「&lt;a href=&quot;http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-391.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;WANの第3回総会とシンポに参加して&lt;/a&gt;」の4「投稿規程の字数とジャンルの緩和など要望」参照)。この点については、牟田副理事長が、検討するとのご返事をなさった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;５．&lt;/span&gt;会員からの発言が少なかったのは残念&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残念だったのは、総会で私以外の発言者が少なくて、時間が余ったことである(10～15分程度だが)。昨年から総会の時間が1時間半になったのは、私が要望したためなので(上野理事長はそうおっしゃっていた)、残念である。上野理事長も「1時間半に延ばしたのだから、皆さんのご意見を」を言ってくださったのだが、結局時間が余ってしまった。私自身も本当はもっとたくさん質問したいことがあったのだが、私1人が場を独占してはいけないし、他の方のご意見もうかがいたいと思って、発言時間が長くなりすぎないようにしたのであるし(私の発言時間は、合計しても5～6分程度にすぎない)、もっと多くの方に発言していただきたかった。すべての会員が集まって直接話し合える機会は、総会しかない。また、総会には、理事も皆さん出席されている。WANは、その活動の成果のほぼすべてが何らかの形でウェブサイトに表れているのだから、たとえば、WANサイトについての感想や要望なら、誰でも発言することが可能だと思うので、来年からはもっと多くの方が発言なさっていただきたいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;６．会員＝株主論について&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上の点とも関連するが、午後のシンポジウムで、上野理事長が「企業で言うと、ユーザーは消費者、会員は株主」(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;動画&lt;/a&gt;の01:30:40頃～)と発言なさった。現在の社会では、「株主オンブズマン」や電力会社の株主総会での「脱原発」提案に見られるように、株主は社会的に非常に重要な役割を果たしている。そうした意味では、私も、会員には「株主」としての自覚が必要だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、「会員＝株主」論には、やや違和感も覚えた。企業の株主が投資や資産運用のために株を買っていると違って、WANの会員は、純粋にWANの発展を望んで会員になっているのだから、会員を「フィードバック」の対象にするだけでなく、会員に対して、より積極的に事業への参画を促す取り組みがあってもいいし、それを前提にして組織運営をすべきではないかと思う。「会員さま」という呼び方がWANサイトの一部で使われており(例：「&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/reading/?cat=28&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;法人会員さま情報&lt;/a&gt;」)、これは、企業が「株主さま」と言うのと同様の感覚で使われているのであろうが、会員を仲間とみなさずに、「敬して遠ざけている」ようで、好ましくないと思う。もっとも、最近は「会員の方」「会員の皆さま」という言葉の方が多いようなので、この点は改善されつつあるようにも見えるが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;７．ボランティアの採用や権利について規定を作ることも必要では？&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、「会員＝株主」だとすると、「ボランティア＝社員」ということなると思うが、定款には「会員」と「役員及び職員」のことしか書かれていない。たとえば、定款には、会員の入会については詳細な規定があるが(「第７条　会員の入会については、特に条件を定めない。/ 2　会員として入会しようとするものは、会員の入会申込書により、理事長に申し込むものとし、理事長は、正当な理由がない限り入会を認めなければならない。/ ３　理事長は、前項のものの入会を認めないときは、速やかに、理由を付した書面をもって本人にその旨を通知しなければならない。」)、ボランティアの登録(採用)については、何の規定もない。私は、昨年1月、ボランティアの申し込みメールを送ったことがあるが(&lt;a href=&quot;http://wansogi.omiki.com/vol.html&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;WANに対する私のボランティア申し込みメール&lt;/a&gt;)、何の返事も来なかった。これは、単に仕事のマッチングが合わなかったからかもしれないが、ボランティア登録についても、ちゃんと規定を作る必要があるように思う(定款で定めるか否かは別にして)。また、より重要なのは、ボランティアの権利について定めた規定を作ることだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ひょっとしたら、ボランティアは、第20条の「職員」に当たるのだろうか?　だとしても、職員については、「この法人に、事務局長その他の職員を置く。/ ２　職員は、理事長が任免する。」という規定しかないので、不十分であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;strong&gt;二　シンポジウム「NPOのチカラ2013――それは『女縁』から、はじまった！」&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
午後のシンポジウム「NPOのチカラ2013――それは『女縁』から、はじまった！」(WANと参画プラネットの共催)は、以下のような内容だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・上野千鶴子(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;NPO法人WAN&lt;/a&gt;理事長)「それは『女縁』から、はじまった！」&lt;br /&gt;
・石井布紀子(&lt;a href=&quot;http://www.npo-sakura.net/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;NPO法人さくらネット&lt;/a&gt;代表理事)「NPOを支える社会の変化は？」&lt;br /&gt;
・渋谷典子(&lt;a href=&quot;http://sankakudo.net/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;NPO法人参画プラネット&lt;/a&gt;代表理事)「『女縁』NPOの可能性は？」&lt;br /&gt;
・「10年＋(プラス)プロジェクト！始動」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このシンポジウムについては、&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;がWANサイト&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;/a&gt;に掲載されているので(会場からの質疑応答を除く)、全体については、その録画をご覧いただきたい。また、全体の概略として、「&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/group/?p=2941&quot; title=&quot;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;NPO法人参画プラネット☆シンポジウム『NPOのチカラ2013』&lt;/a&gt;」も掲載されているので、ご参照されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;１．&lt;/span&gt;NPOにおける有償・ボランティア労働について&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年には「&lt;a href=&quot;http://www.webfemi.net/?page_id=789&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;非営利団体や市民運動における雇用や無償・ボランティア労働を考える―ユニオンWANの事例から&lt;/a&gt;」集会や「&lt;a href=&quot;http://d.hatena.ne.jp/discour/20100624/p2&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;フェミニズム運動や研究組織における非正規・無償労働問題を問い直す&lt;/a&gt;」ワークショップがおこなわれ、私も参加したり、その記録を読んだりしたが、このシンポジウムでも、NPOにおける雇用(有償)労働やボランティアが一つの話題になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渋谷典子さんは、「私が収入を得ているNPO法人『参画プラネット』は、センターの指定管理者事業の収入が多くて、年間4500万～5000万ある。その中で2000万ほどの人件費があり、それをどう分配するか、誰にそのお金を渡すか、誰を採用するかを[参画プラネットで]議論した。私たちはいったん専業主婦になって社会につながろうと思ったとき、仕事がなかった。だから、そういう人たちを対象に、その2000万を分配しようと決めた。8年間、ここにいる間にスキルアップして(ここに居つくことはNG)、出て行ってもらうというプロジェクトをした。見事にさまざまな女性が育っていった。女縁にもとづくNPOでは、シングルマザーに多く給料を渡すというやり方もできる」といった話をされた(以上は、&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;01:41:00～。完全な文字おこしではなく、大体の内容です。以下同じ)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対して、上野千鶴子さんは、WANは年間約500万円の財政規模のNPOであり、参画プラネットの4500万円とは9倍の開きがあることを、「そっちはbigNPOで、こっちは弱小零細NPO」と言って強調された。上野さんは、「だけど、その4500万は名古屋市民の税金であり、その税金を4500万getするための苦労をこの人たち[渋谷さんたち]はしていない。役人もしていない。だから役人は平気で無駄遣いをするし、もっと安上がりにしようとして、不利な条件をこの人たちに押し付けている。大事なのは官に頼らない、官に振り回されない、官から自立できる準備をするということ。だから官の言いなりにもならない。私たちには官のお金はビタ一文入っていない。こんなこと言っちゃいけない。今日は、つながれっとNAGOYAに協賛していただいています」ということを述べられた(以上は、&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;01:43:30～)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上野さんの話を受けて、石井布紀子さんは、「どうしよう」と戸惑いつつ、「財政規模が600万くらいの団体では、オールボランティアの場合と、お一人くらいパートや専従を置いている場合があるが、その両者の活動の量には、すごく差があって、600万の規模だと、オールボランティアの方が、活動量が多い」という発言をなさった。この発言を聞いた上野理事長は両手でVサインをなさった。石井さんは、参画プラネットについては、「2000万円というのは、人件費率が高めだが、これは、人が資産の活動だからですね」とおっしゃった。それに対して、渋谷さんは「女縁のネットワークが私たちを応援してくださっているから、市民の税金をたくさん使わないですんでいる」という面を語られた(以上は、&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;01:47:10頃～)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに、参画プラネットとWANとでは、財政規模が違うから、異なったやり方をしているという面が大きい。この2つの団体は、もちろん性格も異なるだろう。上野さんは、Vサインをなさったところを見ると、WANの場合は、少なくとも現在の財政規模の場合は、すべてボランティアでやる体制を非常に肯定しておられるようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、私は、NPOの場合は、当然のことながら、「活動量」の多さだけが評価の基準ではないと思う(仕事づくりという面もあるし、参加者が活動上で自己の解放ができているかとか、活動のあり方の質とかいう面もある)。また、昨年のWAN総会でも、「人件費を増額して、専従を置いてほしい。ボランティアで回すことは限界にきている」という意見が出ており、上野理事長も、その点を検討するむね答弁なさっている。つまりWANの中にも(上野さん自身の中にも？) さまざまな考えがある面がある。「人が資産」である点は、NPOの規模の大小にかかわらず同じだ。以上のような意味では、現状においても、すべてボランティアという体制を絶対化するべきではないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上野さんは「WANの役員をやっていて、得になることは何もない。楽しいからやっている」とおっしゃった(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;動画&lt;/a&gt;01:48:50頃～)。まさに「ボランティア」としてやっておられるわけである。しかし、組織がある程度大きくなったり、役員が社会的地位を持っている人だったりした場合は、そこにどうしても権力関係が生じがちなので、ボランティアメンバー全員の労働が本当にすべて自発的であることを保障する体制(ルール)のようなものを作ることが課題になるように思う。この点は、私が「&lt;a href=&quot;http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-377.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;WAN争議が提起した課題と現在のWANの問題点&lt;/a&gt;」の2「ボランティアについて」で述べたとおりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私にはWANの運営の実際のシステムや個々のボランティアの方々の意識がわからないので、具体的な提言はできないが、以上のように考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
話は変わるが、渋谷典子さんは、ご自分の報告の中で、パワーポイントで、下のような図を映された(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;01:08:23頃～)&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;「私」からのコミットメントに対する、NPOの姿勢&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
○ボランティア、有給労働者・有償ボランティア&lt;br /&gt;
&amp;rarr;定期的な役割の見直しと確認&lt;br /&gt;
&amp;rarr;労働法との関係(脱法行為とならない運営)&lt;br /&gt;
ボランティアの安全保障&amp;hArr;労働者の安全保障&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;渋谷さんは、上の図について、これは「私の研究テーマですけど」と言われたうえで、パワポの文字を読みあげるだけでなく、「『有償ボランティア』という言葉は非常に危うい言葉で、労働法の世界では非常に危うい」、「労働法学者に言わせれば、『NPOの人たちはずいぶん脱法行為をしているのではないか』という。だから、私は、研究の世界では肩身が狭い。『女たちをただ働き化しているのではないか』『サービス残業のようなことをさせても、自発的な活動にしているからお金を払わないで済んでいるのではないか』と、研究の中では言われている」といったこともおっしゃった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渋谷さんは、「いまNPOの活動と労働法との関係について、難行苦行の論文執筆をしている」とも述べておられた(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;57:28～)。きっとさまざまな理論や立場がおわかりになるから、苦労しておられるのだろう。渋谷さんはすでに、「NPO『活動者』と労働法についての予備的考察――ジェンダー視点を踏まえて」(『ジェンダー研究』10号[2007])という論文も発表されているが、今回の論文はどのようなものになるのだろうか。従来の労働法研究の蓄積やご自身のNPOでのご経験などとあわせて、NPOの労働者のさまざまな声も調査なさったうえでの論文になることを期待させていただきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、石井布紀子さんも、ご自分の報告(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;28:30～)の中でNPO職員の給与問題を幾つかの視点から取り上げておられた。NPOにおける労働や賃金の問題は、今後の焦点の一つになっていくことは間違いないと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
といっても、今回のパネラーの方々は、皆さん、NPOの理事長・代表理事でいらっしゃった。今後、労働問題を本格的に論じる機会も設けていただきたいが、その際には、労働者やボランティアの代表(組合関係者など)も加わって議論する必要があるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;２．&lt;/span&gt;「プラットフォームとしてのWAN」について&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渋谷さんは、女縁を生かすために大事なものの一つのは「プラットフォームだと思います。出会える場所。」だと指摘なさった上で、次のように述べられた。「インターネットという空間にプラットフォームが出来たらすばらしいと考えている。私はプラットフォームとしてのWANをこれからも私の活動の中で大切にしていきたい」「WANは、プラットフォームを越えて、『駅ナカ』(駅構内にある多種多様な商業スペース)のようにバリエーションがあって、楽しいことがたくさんある場所だ。『駅ナカ』のように、いろいろなメニューがある」(&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/topic/?p=451&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;録画&lt;/a&gt;01:12:50～)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、私は、個々のサイトではなく、ある意味で、インターネット空間全体が「プラットフォーム」なのだと思っている。なぜなら、インターネットは、時間や空間を越えて、同じパソコンの画面の中で、すぐさま、どこにでも行き来できることが特徴だからである。WANが「駅ナカ」だとしても、インターネット上では、現実の世界と違って、駅ナカと他の商店街(＝WAN以外のサイト、ブログ、ツイッターなど)との間の往来には、お金も時間もかかならい。いや、インターネット上では、ブックマークやフィードリーダー(RSSリーダー)、リンク集などを使えば、一人一人に合った「駅ナカ」を作ることができるとさえ言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、WANよりも、むしろWAN以外のサイトやブログのほうが、個々の執筆者のメールアドレスなどが明示してあるケースが多い分、出会いを作りやすい面がある。私の場合も、インターネットを通じて実現した出会いや繋がりの多くは、私のメールアドレス宛にご連絡をいただくことによって始まっている(また、WANにコメント欄ができる以前は、WANサイト以外のほうが、コメントやトラックバックが可能な点でも、出会いや繋がりが作りやすかった)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、WANの場合、現状では原稿の投稿から掲載まで1週間以上かかる(私の経験では)点や、論争に消極的な点も――「不毛な論争を避ける」という投稿規定はともかく、執筆者どうしの真摯な論争・建設的な論争、対話なども非常に少ない――プラットフォームとしての価値を減じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん総会やシンポ、ボランティアチームのようなリアルの場で出会えば、WANでも大いにつながりはできるが(私もできている)、それはどの団体でも同じであり、とくにインターネット空間とは関係ないだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も、WANの中にさまざまな女性やフェミニズムに関する文が集積していることや、さまざまな運動体へのリンクがあったり、運動体にアピールの場を提供していることには非常に意味があるし、間接的には出会いにつながる可能性があると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、上で述べたように、WANに「プラットフォーム」独自の機能を発揮させるためには、同じサイトの中にいろいろなメニューがあるというだけでは、弱いと思うのである。もう少し工夫が必要だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、上で述べたように執筆者が原稿の中にメールアドレスを載せるようにすれば(支障がないかぎりは)、出会いの場としての機能が高まろう。私も、次に投稿するときはそうしたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、シンポジウムの討論の中で、ある方が、「女性は子どもを出産した後にフェミニズムに目覚めることが多くて、私の知っている方も、読みにくいのに、ガラケーでWANを読んでいる。そうした方が語り合える場が必要だ」(討論は録画されていないので、ここで記述した内容は正確な記録ではないかもしれないが、だいたいこうした内容のことをおっしゃったと思う)と発言された。彼女たちが語り合えるような場、それはすなわち、掲示板的なものになるのだろう。しかし、誰でも書き込める掲示板では、プライバシー保護や「荒らし」の面が心配で、管理が大変だから、内輪のSNSが最適のように思う。その点から見ると、Macska(小山エミ)さんが、3年以上前に、【WAN2.0】として提唱していた下のようなことが、検討に値すると思う。&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;せっかく個人アカウントが作れるようになっているのだから、ソーシャルネットワークサイトのようにしてユーザがエッセイや書評や活動報告などユーザ生成コンテンツをアップロードしたり、気になる他のユーザの記事をフォローしたり、感想や意見を交わすことができるようにしてはどうか。もともとWANでは掲示板のようなものが作られると予告されていたのだけれど、さすがに管理の困難さを考えたのか、いつの間にかその企画自体が「なかったこと」にされてしまったのだけれど、SNSに付属させるかたちであればユーザ同士の交流も可能なはず。もし本当にWANを使えるサイトにするなら、この路線が本命だと思う。基本的な機能は無料で使えるようにして、より深く使いこなすには有料アカウントを取得してください、みたいな形で資金も調達できると思う。&lt;a href=&quot;#52&quot;&gt;(2)&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;&lt;span style=&quot;text-decoration: underline;&quot;&gt;３．&lt;/span&gt;F-WANをめぐって&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シンポジウムでは、F-WAN (Fund Raising WAN)というプロジェクトを始めることも発表された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
F-WANとは、ごく簡単に言えば、今回WANが認定NPO法人になったことによって、寄付した人が所得税の寄付控除を受けることができるようになったから、今後は広く寄付を集めて、全国の女性たちの活動を支援する仕組みを作ろうというプロジェクトである。ただし、WANの財政基盤はまだ脆弱だから、まずはWAN本体サイトの活性化のために寄付をお願いしたいとのことだ(「&lt;a href=&quot;http://net.wan.or.jp/f/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;F-WAN、始まります！&lt;/a&gt;」)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月21日、このF-WANについて、ツイッターで、山口智美さん(以前、NPOで他団体に助成を出すプロジェクトの有給スタッフとして働いた経験がおありだそうだ)とクーコさんとの間で、簡単に要約すれば、「他団体に助成を出すNPOのスタッフの仕事は非常に大変なのだ。だから、他団体への助成以前に自分の団体で有給スタッフを雇える体制をつくらないといけない。他団体が人件費にも使えるような助成にするためにも、自分のスタッフも有給にしなければならない」という内容の会話が交わされた&lt;a href=&quot;#53&quot;&gt;(3)&lt;/a&gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、助成が必要な女性たちの活動はたしかに多々あると思う。たとえば、私は女性運動の高齢化が気になっているので、若い女性の主体的活動を金銭的に支えることができればいいと思う。しかし、シンポジウムでも上野さんが「WANは弱小零細NPOだ」と言っておられたように、他団体への助成はまだ難しい。もっと寄付が増えた場合、果たしてそれをスタッフの有給化(とくに上で指摘されている助成プロジェクトのスタッフの有給化)に使うか、他団体への助成に使うかも一つの選択になるのであり、そこで前者の選択肢も検討してほしいと思うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というか、外部の人に寄付を募るには、その使途をもう少し明確にしてから募ったほうがいいのではないだろうか??&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がもう一つ気になるのは、他団体への助成が公平中立の立場でおこなわれるかどうかである。たとえWANに批判的な側面が大きい活動でも、助成を申し込めば、公正に審査されるのだろうか？　WANの助成は、個人の私財や遺産をもとにした基金から出すのではなく、WANが認定NPO法人になったことを活用して広くお金を集めるものなので、とりわけ公共性が高いから、この点は非常に重要だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のようなことは、F-WANの方々はすでにおわかりかもしれないが、念のために書かせていただいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(1)ただし、総会では、「昨年同期のほぼ2割増」であると述べられた。月による変動は当然あるだろうから、ひょっとしたら毎年4月は落ち込むということなのだろうか？　また、5月には新しく&lt;a href=&quot;http://wan.or.jp/document/web/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ミニコミ電子図書館&lt;/a&gt;が出来たし、コメント欄が設けられるなどの変化があったので、現在ではもう少し伸びているのかもしれない。&lt;br /&gt;
(2)macska「&lt;a href=&quot;http://macska.org/article/268&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;労働争議でグダグダになってるWANを再生させる５つのアイディア&lt;/a&gt;」macska dot org2010年3月3日。&lt;br /&gt;
(3)そのツイートは、以下のとおりである。&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;yamtom／山口智美 @yamtom &lt;br /&gt;
@kuko_stratos 私自身が以前、他団体に助成を出すNPOのスタッフ（有給）をやっていたので、どれだけ大変な仕事か身にしみてわかっている面があるんですよね。まずは他団体以前に自分の団体でしっかり有給スタッフを雇える体制をつくらないことには、相当な無理がかかる事業のはずで。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クーコ／ @kuko_stratos &lt;br /&gt;
@yamtom ほんまにほんまに。助成を出すのはたいへんです。でも、出してもらう方としても、担当がボランティアなのに、自分とこが有給有償がっちり、ってのって、やりにくくないかなあ&amp;hellip;かくして、女がらみの活動はどんどん「うつくしきボランティア」で占められていくというね&amp;hellip;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
yamtom／山口智美 @yamtom &lt;br /&gt;
@kuko_stratos 助成出すのであれば、人件費に使える助成にしないと「美しいボランティア」状態でどんどん占められていく展開になっちゃいいますよね。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クーコ／ @kuko_stratos &lt;br /&gt;
@yamtom どうしても草支援団体とかだと、まさに手弁当状態だと思うので、むしろ出す方が「ちゃんと人件費払いよ。なぜなら&amp;hellip;」って&amp;ldquo;啓発&amp;rdquo;せなあかんとこですよ&amp;hellip;。WANが自立して給料もちゃんと出してまわるなら、それが一番の励みと好事例になると思うのですが&amp;hellip;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
yamtom／山口智美 @yamtom &lt;br /&gt;
@kuko_stratos 同感です。この新しいプロジェクトを始める前に、まずは自団体でモデル見せてほしい。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(以上は、&lt;a href=&quot;https://twitter.com/yamtom/status/348320327216029696&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;yamtom／山口智美2013年6月21日-23:03&lt;/a&gt;以下のツイートより)。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;</description> 
      <link>https://genchi.syoyu.net/category-2/3.html</link> 
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